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2007年9月10日 (月)

アイドル愚考録(4)

「ドイツ占領下の時ほど、自由だったことはなかった」

無神論的実存主義を唱え、「嘔吐」などを著したジャン=ポール・サルトルの言葉である。

フッサールの現象学に強い影響を受けたサルトルは、「現象(世界)との関係そのものが意識である」とし、人間は積極的に社会に関わっていくべきだと訴えた。

彼の定義する自由とは「どのように行動するか(係わるか)を自分で決定できること」だ。

上述の言葉の真意は、もっとも自由を制限されていた戦争の時こそ、もっとも自由を意識した時だった、ということらしい。

実にサルトルらしい言葉だ。

今回、取り上げるのは田中ゆみという若手グラビアアイドルだ。

私の記憶のなかに彼女の名前はなく、このブログのため経歴を調べてみると、私がチェックしている雑誌でも仕事をしていた。しかし、それでも彼女を思い出すことはなかった。

しかしそれも仕方ない。彼女はそれほど個性的な顔ではない。

当然きれいな顔をしているが、インパクトには欠けている。整った顔つき、という記憶のカテゴリーにすんなりと収納されてしまうタイプの顔だ。「田中ゆみ」というカテゴリーが作られるほどの力を感じない。この世界、顔のよさがマイナスに働くことは案外と多い。

実際、巻末に収められていたカットはそれほど面白くない。やはり大勢いるグラビアアイドルの中のひとりという印象を拭えない。

しかし表紙のカットは実に面白い。思わず足を止め、見入ってしまったほどだ。

美人ではあるが、さほど個性的ではない田中ゆみの表紙グラビアが面白かった理由。

それはこの雑誌がバイク雑誌であるからだ。

ミスターバイクの10月号を見かけたならば、ぜひ表紙に注目して欲しい。

そこは不思議な空間だ。

都心部で撮られたカットだろう。フレームの剥きだしになった通路が画面左上部にある高層ビルへと通じているのだが、これが画面に奥行きを作るのと同時に、漫画でいう集中線の役割を果たし、見る者の視線を誘導している。グラビアに動きを生んでいる。

画面中央に停車したバイクはハンドルを左上に向け、今にもビルへ向かって走り出しそうだ。田中ゆみはそのバイクのシートに半分ほど腰をのせ、上体を少し反らし気味にして立ち、少し緊張した面持ちでこちらを見ている。

そのタイトなミニスカートからすらりと伸びた彼女の足は、画面の左下で地面で接し、ちょうど画面の中央でバイクと人が『X』という字を描いている。

この構図はこの雑誌でなければ生まれない。主役が彼女だけではなく、バイクもまた主役であるバイク雑誌だからこそ、この人とモノとが等価であるカットは撮影されたのだ。

バイク雑誌というジャンルが必然的に抱える制約がプラスの方向に働いたわけだが、この何かと嫌われることの多い制約は、使い方によっては今回のように実に効果的に働く。

まだグラビア慣れしていない若手などは総じて所作が不自然で美しくない。指がだらしなく遊んでいたり、ポーズに拘泥するあまりリアリティを欠いていたりする。

そんな時、カメラマンは制約を使う。

彼女らをガチガチに拘束し、自由を奪ってしまうのだ。

例えば浜辺での仕事で、ぎこちない動きしかできない新人アイドルがいた場合、カメラマンはビーチボールなどの小道具を渡す。するととたんに彼女は自然な動きを取り戻すのだ。

しかし、これは遊びで彼女の緊張感を解きほぐしたのではない。

単純に、彼女にはビーチボールを持つこと以外の行動ができなくなっただけだ。

彼女は、自分という個性を奪われ、「ビーチボールを持つ女」というひとつの型に嵌められてしまったのだ。

拘束とは別に縄で縛るだけではない。それ以外の行動の自由を奪うことも充分に拘束と言えるのである。

個性を奪われた状態が自然(自由であること)に繋がるとは、矛盾した事実に思えるかもしれないが、それは違うと私は考えている。

個性とは一種の不自由であるからだ。

個性は不自由のひとつの形態でしかない。それは<個>という我執に囚われることに他ならないからだ。果たして自由とは<個>という狭い枠に拘束されることなのか。

自分の意識が本当に自分のものなのか。それは誰にも分からない。

意識が目に見えない、感じることのできない、曖昧なものだからだ。

その不安を解消してくれるのは身体性である。身体が個人という記号をつくる。身体という現実的な手触りだけがそれを保証してくれる。

その唯一の保証すら手放す。放棄する。

無明の闇に自らを捨て去る、この一見無謀な行為こそが、自我という最後にしてもっとも強固な檻を破る、わずかな可能性を得ることに繋がるのではないか。

バイクに身体を預けている彼女は実に不安そうに見える。

なぜなら彼女は倒れないために、手や背中で身体を支えなければならない。それ以外の行動をする自由は奪われている。

田中ゆみという一人のグラビアアイドルは消え、「バイクに身を預ける女」という定型に嵌められているのだ。

しかし、型に嵌まるということは、この世に無数にある、美しさのひとつの形に達するということでもある。そこには様式美が生まれる。

不敬を承知で言わせて貰えば、磔刑にあったキリストの姿には、ひとつの様式美があったと私は確信している。ある美しさの極地に達している。

身を捨てることで得られる自由。

サルトルは言った。

「ドイツ占領下にあったときほど、自由だったことはなかった」

サルトルはこうも言った。

「人間は自由へと呪われている」

もしかすると、身の自由を奪われた彼女こそがもっとも自由なのかもしれない。

○注意 冒頭のサルトルの言葉と、今回の私の意見とではかなりの差があることは承知のうえで、外形としての文言がよく似ていたので引用させていただいた。悪しからず。

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