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2008年2月25日 (月)

谷桃子を信じる理由 ( アイドル愚考録 )

 先週に引き続き、谷桃子への考察を続けてみたい。これは個人的な要求に基づくものである。

 実は先日、前回のコラムを読んだ知人から、果たして本当に今年が彼女の年になるのか、という挑発じみた疑問を投げかけられた。

 自説に、というよりは谷桃子の能力に全幅の信頼を寄せていた私は、当然、その申し出に対して少なからぬ反発を覚えたが、実は彼のような認識こそが世の人の一般認識なのではないか、と気がついた。

 そして、もしもそうであるならば、彼ひとりを諭してみても空しい独りよがりでしかない。ならばこの場を借り、彼女への相応な評価を世間から引き出そう。そう考えたのである。

 さて、私が彼女の活躍を疑わないのは、彼女の身体の持つ不思議さを信じているからに他ならない。

 私がそれに気付いたのは、去年のあるグラビアを見たときである。

 彼女はそのグラビアで、サンタクロースのコスプレや、トナカイの着ぐるみ等でユーモラスな動作をし、こちらを笑わせていたのだが、そのなかに通常は両立しないはずの感情、エロスが映り込んでいた。

 通常、青年誌の特集グラビアでは5枚から6枚程のカットで、幾つかの感情( 笑いや感傷、そしてエロス )を混合させようとする。それは様々な感情を混合させることで、グラビアにメリハリを付けるためである。

 その際のやり方は極めて即物的である。

 単純に異なった感情のカットをページ別に配置するだけで、言わば、56枚で構成された物語のなかで、それらが混合されているように見せかけているに過ぎない。

 ところが、彼女は違う。

 彼女のグラビアにおいては、驚くべきことに、それらの性格が一枚のなかに境目なく溶け合っているのである。

 谷桃子が凄いのは、身体の中にふたつ以上の感情を宿していることだ。

 ここで宿している、と使っているのは文字通りの意味である。

 つまり外側からは見えにくいのである。

 「笑いの部分」と「エロスの部分」と溶け合っているため、見えないのだ。それはつまり意識的に捕らえることが難しい、騙し絵をイメージすると分かりやすいかもしれない。

 有名な騙し絵のひとつに、一見すると美女が後方を振り返っているように見えるが、またそれは疲れた老婆の横顔にも見える、というものがある。谷桃子のグラビアはそれと似ている。

 美女を見ると老婆が消え、老婆を見ると美女が消える。

 脳がどちらかを認識してしまうと、もう一方の風景が消える。両方を同時に成り立たせることはできない。

 谷桃子の喜劇的な振る舞いに笑っていたはずなのに、いつのまにか欲望を感じている自分に気付いて驚く。そんなことが彼女のグラビアには多い。

 その感情の移行があまりにスムーズで、スイッチが切り替わるようではないので、意識化するのが非常に難しいのだ。

 ところで、先程『 「笑いの部分」と「エロス」が 溶け合っている 』と書いたが、それは表面上だけ、上辺だけの話である。

 実は、谷桃子の身体の中では、「笑い」と「エロス」が溶け合わず、それぞれが自由で確立されているのではないか。

 ひとつの運動体のなかで、垂直に向かう力と真横に向かう力が起きると、45度の斜め上方に向かう力が合成される。これは表面的には斜め45度の力として表現されるのだが、実は別々の力を溶け合わせずに動かした結果、たまたま重ねあって生じた力である。

 また、古武術研究家の甲野義紀氏は、己の玄妙な動作の秘密のひとつとして、「体の中で、ふたつ以上の力を溶け合わせることなく、別々の力として扱うことでより大きな力として発揮できる」と語っている。

 彼女の身体の不思議さも、この力学的な法則によるものではないか。

 矛盾したものを矛盾したまま扱うことで、彼女のグラビアの魅力は成り立っている。

 無論、立証はできないが、それでも私にはこの説にちょっとした自信を持っている。ご賛同いただければ幸いである。

 さて、もしもこの説が正しいとするならば、私たちは思い出さなくてはならないことがある。

 グラビアを眺める、我々のものではない視線、つまり撮影者の視線である。

 上記の説に添って考えるならば、ファインダー越しに眺める彼女の姿もまた多義的でなければならない。

 グラビア撮影は通常、撮影者のイメージ、コンセプトに添って進行するものだから、ここに撮影者の意図しない感情が映り込むのは好ましくない。

 彼女の中に潜む、プリズムのような感情の乱反射に迷うことなく立ち向かえるのか。

 それとも、あえなくのまれて混乱した感情が無秩序に散らばる、まるでキメラのようなモンスターを撮ってしまうのか。

 しかし、この感情の多義性を制した時、そこには世のあるがままの混沌を、形式的に切り取るという、離れ業が可能になるのだ。

 カメラマンにとって、これは心の躍る挑戦になる。

 しかし、この難しさに気付くのは、相当に感覚の感度の磨かれた、一流のカメラマンだけであろう。

 むしろデビューしたてのカメラマンにとっては事情は反転するはずだ。

 彼女の身体は多義的なため、グラビアにはかならず何らかの感情が映る。

 笑い。エロス。感傷。深刻さ。

 つまり、感度の鈍い、技量のないカメラマンにも、そこそこの写真が撮れてしまうのである。

 『 撮れる 』ではなく、『 撮れてしまう 』のだ。

 意図して強調した感情だけでなく、余分な感情までが基準値以上の強さで映りこんでいることに気がつかない。それどころかその余剰な感情の放出からくる統一感のなさを、魅力とすら勘違いしてしまう。そんな事態すらありうる。

 すると、彼らにとって谷桃子というアイドルは、撮影が簡単で面白みがなく、自らを高めるための踏み台、基本となる練習にしか過ぎない、という過信がうまれることになる。

 しかし、もしも彼がそこに留まらず、足を運び続けるならば、やがてレンズ越しの彼女が違ったものに感じられてくることだろう。

 突然、目の前の視界が晴れ、馴れたはずのハイキングコースの先に、はるかに聳える巨大な山の全容が見えたようなものだ。

 また、これは一流と呼ばれる人たちが、そのなかに精妙なシステムのあることに気付き、基本に還っていくという、全ての芸事に通じる真理でもある。基本とは、芸事の深奥に達した先達が、後輩の指導のために苦心して無駄をそぎ落とした、真理の中の真理であるからだ。

 基本のなかに、全ての到達点があるといっても過言ではない。

 谷桃子はグラビアのカメラマンにとって、自らの段階を試す絶好の試金石となるのである。

 市場のニーズからグラビアでの登場回数が増えるのは確かだが、現場から上がる声も無視は出来ない。

 谷桃子の抗うことのかなわぬそのパワーは、『 見たい我々 』と『 撮りたい彼ら 』という二つの要求が、溶け合うことなく別々の力として働くことで生まれているのである。

 これが、私の谷桃子の活躍を信じる理由である。

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