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2008年5月

2008年5月27日 (火)

生命

○ 自宅・リビング

   ガラン、ガランという音。


○ 同・キッチン

   床に転がるやかんの蓋。

   コンロは倒れたやかんから零れた水で水

   浸し。

   流しでは春人(8)がべそをかきながら

   右手の人差し指を流水にさらしている。


○ 通学路(翌日の放課後)

   下校中の春人。水ぶくれになった右手の

   人差し指の先を気にしている。

   下校中の生徒数人が道端に集まっている。

   近寄って覗いてみる。

   蝶が今まさに羽化しようとしている。

   その様子に歓声を上げる生徒たち。

   春人、ハッとなり指の水ぶくれと蛹を交

   互に見て青ざめ、突然走り出す。


○ 自宅・玄関

   駆け入って勢い良くドアを閉める。


○ 同・洗面所

   震える手で剃刀を持ち、ゆっくり、しか

   し最後には思い切って水ぶくれを切る。

春人(痛っ!)

   剃刀を落とし、指を押さえる。

   今度はべそをかかず、ぐっと歯を食いし

   ばって涙を堪える春人。

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2008年5月26日 (月)

矢吹春奈に望むこと ( アイドル愚考録 )

今回取り上げるのは矢吹春奈である。

猫ひろしの怪演もあり、一部の層にカルト的人気を博した『 美少女戦麗舞パンシャーヌ~奥様はスーパーヒロイン! 』の主役を張り、また出演陣がほとんど水着を着用したことでも話題を呼んだ『 ケンコー全裸系水泳部 ミズショー 』の舞台においても、重要なキャストを任されている。

私個人の感覚からすると、まだそれほど大きな活躍はしていないが、業界からの注目度、信頼度はかなり高いものと思われる。今後のブレイクが待ち望まれているグラビアアイドルのひとりである。

しかし、特に心配しなくとも彼女のブレイクは時間の問題であろう。

なぜなら、現在のグラビア業界が抱えている問題を解決できるのが彼女だからである。

今、グラビア界はお姉さん系が圧倒的に不足しているのだ。

すこし前までは、この分野を専門とするグラビアアイドルが存在していた。

MEGUMIと小池栄子である。

彼女らは、グラビアのみならずテレビ番組でも存在感を発揮し、世の男性たちに厳しいが愛情の籠もった小言を連発して人気者となった。場の空気を読むことに抜群のセンスを持つ彼女らは、絶妙の匙加減でコメントに毒を盛り込み、男たちを骨抜きにしてきた。

そのふたりがグラビアからほぼ手を引いてしまい、現在、お姉さん系市場は厳しい状況にある。若く、可愛らしいアイドルは大勢いるのだが、高い人間性を問われるお姉さん系のアイドルは残念ながら育っていないと言わざるをえない。

そんな中、ひさびさに現れた有望株が矢吹春奈その人である。

業界が待ち望んでいた救世主がようやく姿を現したのである。

年齢の割りに大人びて世慣れた雰囲気を持つ彼女である。すでにルックスやスタイルでは上述の二人より勝っているのだから、話術や所作のスキルが上達すれば、しぜんとこの分野の第一人者となること間違いなしである。

ところで、男が少年期の終わりを初めて自覚するのは、甲子園球児が全員年下になった時であると聞く。

また、自らをもう若くないなと男が感じるのは、横綱が自分よりも年下になった時だとも聞く。

時間が永遠に一方通行である以上、これは避けることのできない運命である。

こうしている間にも、我々は一分一秒と年をとり続け、いつかは大半の人間が年下になってしまうのだ。

ところが、お姉さん系に対してだけはこの法則は当てはまらない。

我々は常に彼女らをお姉さんとして認知してしまう。たとえ相手が娘ほどの年齢であっても、否、たとえ相手が孫ほどの年齢差であったとしても、我々は彼女らをお姉さんとして認識することに抵抗を感じはしない。

男にとって、お姉さんは永遠にお姉さんなのである。

( 女性もまた、お兄さん系アイドルという存在を持ち続けるのかどうかは知らない。これはあくまで男性側の視点、思考形態であることを強調しておく )

ここで追記しておかねばならないのが、お姉さん系と言っても幾つかのタイプがあるということだ。

煩雑になるのを避けるため大きく二つに分類すると、優しさに溢れた女神のようなタイプ( 安めぐみ )とこちらの悪い部分を激しく糾弾し、成長を促してくるタイプ( 小池栄子 )になる。

これは一見、正反対に見えるが、実は両方とも男に癒しを与えてくれるものだ。

癒しとは相手とのコミュニケーションが成り立ったときに初めて感受されるものである。

弱さを赦され、暖かく抱擁されることで我々は癒される。

その一方で、認めたくない弱さを指摘され、叱責されることもまた癒しなのである。そこには『 叱る 』と『 叱られる 』という双方向のコミュニケーションが成り立っているのだ。

私は、彼女には後者の道を選んでもらいたいと願っている。

彼女の少しきついところのある目付きは、世の男性を『 叱る 』ときに真価を発揮するはずだからだ。

その時にはぜひ、少々強めにお願いしたいものである。

補足:最後の一文は私の個人的嗜好からではなく、あくまで彼女のポテンシャルを引き出すためのアドバイスであることを重ねて強調しておく。

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2008年5月25日 (日)

声優語り・番外「REBORNコンサート、略して『リボコン』に行ってきました。序章」(5月31日改稿)

今回は5月4日に中野サンプラザで行われたREBORNコンサート、

略して『リボコン』のレポートをしたいと思います。

過分に腐女子フィルターがかかっていると思われますがその点はご了承くださいませ。

さてこのREBORNコンサート略して『リボコン』はチケット確保が容易ではありませんでした。

私のリボ一派の4人は幸運な事に、昼の部、

そして急遽決定した追加公演分共に人数分の確保が叶った訳です。

その長く険しい道のりはまた別の物語。

そして不運な事に5月4日はスパコミ2日目、開催ジャンルにはジャンプ系が!

そんな不運に打ち勝つ為に、家庭教師ヒットマンREBORN!の同人動員は過去最大の7人で挑んだスパコミ2日目。

といっても皆別に行きたいトコロもあり。

かく言う私も最初はワンピに行き、もう一人は銀魂に行った訳で。

そしてリボコンに行く4人以外の3人は同人とは無関係。

そんな聴くも涙語るも涙のヒストリーは別の機会に。

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2008年5月20日 (火)

マリー・アントワネットの時計 ――または、ある時計蒐集家の手紙(決定稿)

※ この手紙は、長い間空き家となっていたある旧家の、書斎の隠し戸棚に古い懐中時計とともに納められていたものである。

『 私は時計の蒐集を生き甲斐としておりました。この度、長い年月をかけて集めたコレクションを、自らの不徳のいたすところによって手放さねばならなくなったのですが、その中にあって、どうしてもこれだけは人心の分かる方に所持して頂きたいと願って止まない品があり、それを隠し戸棚にこの手紙を添えて納めた次第です。
 あなたはきっと首を傾げていらっしゃるでしょう。華やかな装飾も、複雑な機構も備えない、この一見して簡素で取り立てて目を惹くところのない古びた懐中時計に、何故私が特段の思いを抱くに至ったのか。それをお分かりいただくのは甚だ困難と思われますが、何かしら通ずるもののあることを願って、この時計の製作者と依頼者について私の知っていることを書き記そうと思います。

 この時計は不世出の天才時計師アブラアン・ルイ・ブレゲが、フランス王妃マリー・アントワネットの依頼を受けて製作した「BREGUET(ブレゲ)No.179」です。
 ブレゲは一七四七年一月一〇日、スイスのヌーシャテル地方で生を受けました。この地方の住民が皆プロテスタントであったことと、ブレゲ家が何世代にも亘って牧師を輩出してきたことから、赤子にはごく自然に旧約聖書からとった〝アブラアン〟という名がつけられました。
 幼少期、ブレゲは夢想癖が強く、集中力に欠ける怠惰な生徒であるとして、学校での評価は芳しくありませんでした。しかし、乳幼児死亡率の高かった当時にあって、父親が旅館の館主であるという経済的に恵まれた環境に浴していたアブラアンは幸福だったといえます。また旅館の宿泊客たちが話すまだ見ぬ異国の話や興味深いニュースは、少年ブレゲの好奇心を大いに刺激する材料となったといいます。
 穏やかで何不自由ない生活を送ってきたブレゲですが、彼が十一歳のとき、突然の悲劇が一家を襲います。父親の急死です。ブレゲの母親は、四人の子供たちに新しい父親が必要と考え、再婚を決意します。この再婚相手の職業が時計職人だったことが、少年の進むべき道を決定付けます。
 十五歳で学校を退学し、時計職人になる修行を始めたブレゲは、まもなく義父の知人で、フランスはヴェルサイユに工房を構える時計師の下に奉公に出ます。ブレゲはそのときのことを後に手紙でこう綴っています。
「 自分を鍛え上げたいという止みがたい欲求のために、私は故郷のスイスを去ってフランスに移り、ここに腰を落ちつけたのです。この国が職人の才能を開花させることのできる唯一の国と信じて疑わないからです。」
 当時のヴェルサイユは、「最愛王」と呼ばれたルイ十五世が宮殿に君臨し、ヨーロッパ全土からやって来た多くの芸術家や職人が、その技術や華やかさを競い合う場でした。スイスの片田舎からやって来た十五歳の少年にとっては、見るもの全てがさぞ魅惑に満ちたものに映ったことでしょう。
 ブレゲが独立し自らの工房を構えるのは、それから十三年後の一七七五年のことです。

 一方、マリー・アントワネットは、一七五五年一一月二日、オーストリア・ハプスブルグ家の十一女としてウィーンに生まれました。
 一七七〇年五月一六日、十五歳になったアントワネットは、後にルイ十六世となるフランス王太子と結婚します。彼女は、王太子から婚礼の祝い品として、五十二個の嗅ぎ煙草入れと、五十一個の時計を贈られ、その豪奢な品全てを式の来賓者たちに惜しげもなく振舞ったといいます。

 アントワネットとブレゲがどのようにして出会ったのかは定かではありませんが、恐らくその仲介をしたのは、パリに来てからのブレゲの庇護者であったマリー神父だろうと考えられます。一七八二年にブレゲはアントワネットのために懐中時計を製作していますが、これに「10/82」という刻印が記されています。この数字は一七八二年の一〇月に仕上げられたことを示しています。この年はマリー神父が、王弟であるアルトワ伯爵の助任家庭教師に任命された年であり、これをきっかけとして初めてブレゲは国王と王妃に謁見することができたのだろうと思われます。
 王室御用達の宮廷時計師となってからも、ブレゲはその栄誉に奢ることなく、革新的な機構を次々と開発していきました。幼少期、夢想癖が強く、集中力に欠けると評された少年が、とうとう時計製作の世界において〝寵児〟と呼ばれる存在になったのです。

 翌年、ブレゲは王妃の警護官という匿名の使者から驚くべき注文を受けます。それはあらゆる複雑機構と最新のデザインの粋を集めた最高の時計を作って欲しいという申し出でした。納期も価格の制限も全くなしという規格外の注文に、ブレゲは大喜びし製作に着手します。こうして作られたのが「マリー・アントワネット」と称される伝説の時計「No.160」です。結局、この時計は長い中断をへてブレゲの息子の指揮のもとでようやく完成したため、終ぞ王妃の手に渡ることはありませんでしたが、その存在は今に至るも時計に関係する者全てにとっての憧れです。この年、ブレゲ――三十六歳、アントワネット――二十八歳。片や時計師として、片や王妃として、彼らはきっとこの伝説の時計に象徴されるように、その人生のうちで最も輝きに満ちた時を過ごしていたことでしょう。

 ところが、まもなくしてパリに暗雲が立ち込めだします。一七八九年七月一四日のバスティーユ牢獄の襲撃を契機とするフランス革命です。革命の火は、王政や封建制度といった当時の社会体制に不満を持つ人々の手によって各地に飛び火し、その進展とともにブレゲの上顧客であった宮廷の王族たちは、立場的にも金銭的にも追い詰められていきました。中でも民衆が最も強くその憎悪の矛を向けたのが、ヴェルサイユの宮廷、就中奢侈と享楽の象徴とされた王妃マリー・アントワネットでした。
 革命の影響で時計代金の回収が困難になった結果、ついにブレゲの会社の財政は逼迫します。時計師としてこれまで通り新作に力を注ぐべきか、財政の健全化のため量産にいそしむべきか。絶えず革新的な時計製作に力を注ぎたいブレゲは、彼が時計製作に没頭できるよう主に会社経営を担ってくれていた共同経営者のジイドと対立、程無くして二人は袂を分かちます。
 こうしてブレゲは自由を手に入れました。が、会社の財政は依然として火の車であり、自由を手に入れた直後から、皮肉にもブレゲは本来新作に注ぐべき情熱の全てを経営の建て直しに傾けることになります。
 まずやるべきことは、もはや誰も敬意を示すことのなくなったフランス王室に代わる、新たな顧客の開拓でした。ブレゲはそれを外国の王室に求めます。その結果、予てより取引のあったイギリス王室をはじめ、プロイセンの王フリードリッヒ・ヴィルヘルム二世(彼はブレゲの故郷であるヌーシャテル公国の統治者でもありました)、そしてマドリッドに住んでいた知人の協力によりスペイン市場をも主要な供給先の一つとすることに成功しました。余談ですが、ブレゲは時計代金の回収のため幾度となくブリテン島に渡っており、その度にイギリス王室の金払いの悪さを嘆いています。

 ブレゲが新たな顧客との関係を地道に築きつつあったとき、思いもよらぬ人物が注文をよこします。それは一七九二年八月一三日以来、革命軍によってタンプル塔に幽閉されていたマリー・アントワネットでした。捕らわれの身である彼女は、王宮略奪の際に失った愛用の高価な時計の代わりに、できるだけ安価な時計を作って欲しいとブレゲに依頼しました。ブレゲはその依頼に応えます。王妃に対する当時のパリの市民感情を考えれば、自らの立場を危うくする可能性もあったはずなのに。そうして製作されたのが「No.179」です。それは至ってシンプルな外観に、暗い塔の中でも時間がわかるよう、音で時刻を知らせるリピーター機能を備えた懐中時計でした。

 ブレゲの独創性への飽くなき追求を物語るエピソードの一つとして、彼が死ぬまでに一つとして同じ時計を作らなかったことがあげられます。しかし、これが真実でないことを私は知っています。彼は生涯でたった一度だけ、同じ時計を作りました。売るためではなく、自らが所有するために。それがこの時計――二つ目の「No.179」です。
 同じナンバーを持つ双子の時計は、アントワネットが死の直前、後にシャルル十世となるアルトワ伯爵にそれを譲るまで、二人の手の中で同じ時を刻んだといいます。

 私のこの時計に対する思いには比類がありません。それは心寄せた異性に向けられるもののようであり、また互いに腹の底まで知り合った同性に対するもののようでもあります。出来ることならずっと共にありたい。永遠にこの手の中に納めておきたいとさえ思います。しかし、この時計の最初の所有者であった天才の胸中に思いを巡らすうち、かの悲運の王妃がそうしたように、やはりその価値の分かる方にお譲りするのが最善と考えるに至りました。しかし、生憎と私はそのような友人を持ちません。そこで万に一つの僥倖を頼むほかないと、このように子供染みたやり口に縋った次第です。

 伝説の時計「No.160」に代表される偉大な時計たちは、ときに所有者を超越し、歴史の共有物となります。ですが、私は、時計は常に個人の手にあるべきものと考えます。この時計はある時期、確かに私の掌で、私と同じ時間を生きてくれました。
 だから私はこの時計を愛すのです。
 この時計の新たな持ち主がもし私と同じ気持ちであってくれたなら、これ以上の幸せはありません。』

< 参考資料 >
『 ブレゲ 天才時計師の生涯と遺産 』 ( エマニュエル・ブレゲ 著 菅原 茂 訳 )

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2008年5月19日 (月)

綾瀬はるかと技術革新 ( アイドル愚考録 )

今回このコラムで取り上げるのは、AERA5月19日号の綾瀬はるかの表紙である。

これまでも彼女については何度か取り上げているので、またかとお嘆きの方もいるかもしれない。しかし、愚痴を零すのは後にして、まずはしばらくの間、お付き合いを願いたい。

何しろ、久しぶりにグレン・グールドもびっくりの、超絶技巧のグラビアなのだから。

一般的に言われている綾瀬はるかの魅力は、その柔和で可愛らしい顔立ちと、ふっくらとした曲線で構成される、起伏のある豊かな身体つきであろう。

大半のグラビアはそれを踏まえて、彼女の愛らしさを強調したキュートなグラビア、もしくは幼い顔つきに似合わぬ豊満さを前面に押し出したセクシーなグラビアのどちらかになる。そして、それは往々にして高い水準のグラビアを生み出す、成功を約束された黄金法則だ。

ところが、今回の撮影陣は、その手堅い法則をきっぱりと捨てた。そして彼女の新たな魅力を開拓する、茨の道を選択した。

彼らは無謀にも彼女にシャープさを求めたのである。

そして彼らはその挑戦に勝ち、見事な成果を見せてくれた。

手元にAERAをお持ちの方は、ぜひともじっくり眺めて頂きたい。

パステルカラーを組み合わせたチェック柄のブラウスを着た綾瀬はるかは、こちらに背を向けて立ち、画面の右へ視線を遊ばせている。見詰めるわたしたちを少しも意識することなく、その視線は遠いどこかを漠然とただ眺めている。

そこにいつもの柔らかさは微塵もない。いつも我々を癒してくれる、子犬のような無邪気な微笑みはないのだ。

そこにあるのは硬質で鋭い直線で構成された、驚くべき綾瀬はるかの姿である。

あの丸みを帯びたボディラインの持ち主の彼女が、身体の線を鋭利な直線で組みかえられている。

彼女のグラビアは、素朴で暖かく、どこか土の香りの漂うような個性があるのだが、今回に限ってはそれはまるでない。殺菌されたクリーンルームのように無臭で、無機質でややもすると冷たい印象を受ける。

今回のグラビアには、これまでの綾瀬はるかのグラビアでは発見できなかった、都会的で洗練されたアート作品の魅力が存在していた。

それにしても面白い手を考えたものだ。

彼らは、彼女をただ後ろ向きに立たせるのではなく、カメラに対して斜めに立たせている。

これで右肩と左肩を結ぶ、一直線のラインが出来る。前面に比べて起伏の少ない背面のラインが、自然と直線になるのは今更説明するまでもないだろう。

さらにその顔を右の方向に向けさせる。

すると耳の後ろから顎へと向かう斜めの線と、額から顎先までの垂線が出来る。ちょうど顎で合流するふたつの線は、そこで線から辺と転じて、普段は丸顔な彼女の輪郭を三角形に見せることになる。

このようにして人工的に作り出した幾本の直線を組み合わせ、彼らは今回の幾何学的な、ちょうどキリコの形而上絵画のような綾瀬はるかを描き出してみせたのだ。

個人的な嗜好としては、あまり技巧的に凝った作品は肉の香りが薄れて好みではないのだが、ここまで計算しつくされた、巧緻な技術を見せられると脱帽せざるをえない。

今回のコラムは本来の趣旨とは違い、彼ら撮影スタッフに捧げたいと思う。

追記:特出すべきは、この手法は他のグラビアアイドルにも使用可能ということだろう。

つまり、この手法をうまく使えば、対象がグラマラスなアイドルであるならば、それまでの印象とはがらりと変わったグラビアを生み出すことができることになる。

例えば深田恭子などはどうだろう。

ふくよかなボディラインを持つ彼女のグラビアが、一体どんな作品に仕上がるものか。是非とも見たいものである。

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2008年5月18日 (日)

『声優セット販売について』

緑川さんと置鮎さん、この二人の数多くの問題発言は置鮎さんのコラムを見ていただければ分かるのだが。一時期やたらと共演が多かったのだ。それこそ観るモノ聴くモノやるモノ全てに共演しているのでは?!と錯覚をおこす程に。

こんな風に共演が多くある声優を、言葉は悪いが「セット販売」と呼んでいる。

アニメの『鋼の錬金術師』が流行していたときには、ヒューズ役の藤原啓二さんとロイ・マスタング役の大川透さんの共演が多かった(様な気がする)。

一度だけだが、『キン肉マンⅡ世』にゾロ役の中井和哉さんとサンジ役の平田広明さんが共演していた。その回の放映は、「真冬の恐怖」としてしばらくの間語り継がれたモノだ。

私は未確認ではあるが、BL系CDで跡部圭吾役の諏訪部順一さんと手塚国光役の置鮎龍太郎さんが共演をしたらしい。これまたファンの間では大騒ぎだ。

このように、昔は同じプロダクションで同期や年代が近いと共演が多かったのだ。だが、今は一つの作品でセット扱いのキャラをやると、その後の二・三作品やドラマCDなどで共演が増える確立があるのだ。

ちなみに、BLCDの受け攻めだが。その時その声優さんが演じている一番人気のキャラが、同人界でどちらが主流かによって決まる。

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2008年5月13日 (火)

手まり歌

○ 下町の路地(60年前)

和恵「いちじく にんじん――」

   和恵(5)が毬つきをしている。

和恵「――さんしょに しいたけ ごぼうに

 ……えーと」

祖母「無患子」

和恵「そっか!」

祖母「カズちゃんも大きくなったら小さい子

 に教えてあげるのよ」

和恵「うん!」

   和恵、再び毬つきを始める。

和恵「いちじく にんじん ――」


○ 団地前(30年前)

   前の歌に続く。

和恵「――山椒に 椎茸 牛蒡に無患子――」

   毬つきをする娘(6)の横で手まり歌を

   歌う和恵(35)。


○ こじんまりとした一戸建ての庭(現在)

   前の歌に続く。

和恵「――七草 初茸 胡瓜に――」

   和恵(65)がブラッシングしていた飼

   い犬が彼女の手を離れ逃げていく。

   和恵、寂しげにそれをただ見送って、

和恵「……冬瓜」

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2008年5月12日 (月)

グラビア関ヶ原 ( アイドル愚考録 )

今回のコラムはかなり悩まされた。

青年漫画雑誌の中で、いつも安定して良質のグラビアを提供し続けているヤングジャンプ(YJ)とヤングサンデー(YS)が、先週は揃って大当たりを出したからである。

( ヤングアニマルとヤングチャンピオンは新人の発掘には優れた嗅覚を見せるが、グラビアの質という面では二誌の後塵を拝しているように思われる )

YJの安田美沙子のグラビアは、彼女の脚にテーマを絞り、フェティシズムに溢れたグラビアを展開してくれた。すらりとした細い脚はその形状が美しく、肉付きの薄さを補って余りある眼福を与えてくれる。

また、演出にも様々なバリエーションを加え、パーツにこだわった際に起こりがちなマンネリ化を防いでいる。最後まで鑑賞者を飽きさせまいとする、スタッフの姿勢がすばらしい。

( 例えば秋山莉奈のグラビアなどは、その臀部へのこだわりが仇になり、バックショットの連続でこちらが飽きてしまうケースが見受けられる。素材がいいだけに、撮影スタッフには気を配っていただきたいものである )

一方、YS陣営は川村ゆきえのグラビアである。幼い顔つきに似合わぬ、大振りのバストを強調した肉感的なグラビアで、青年漫画誌の王道を往く、これまた堂々とした出来栄えである。

意外にもYS初登場の川村ゆきえは、そのプレッシャーが功を奏したのか、ここ最近では一番と思われるグラビアを見せてくれた。

( 考えてみると、彼女は事務所移籍後すぐのグラビアでも良質のグラビアを披露している。彼女は初物に強いタイプなのかもしれない )

それにしても、今週の両誌の何と好対照を成していることか。

フェチのYJが陰ならば、肉体美を押し出したYSは陽である。

YJが静ならば、YSは動である。

単なる偶然なのだろうが、ここまで綺麗に嵌まると何かの意思が動いているとしか思えない。

私がどちらかを選ぶことで、今後の流れが決まってしまうのではないか?

そんな恐れすら抱いてしまう。

まるでこの選択が、天下の趨勢を決めた関ヶ原の戦いにも比すべき重大ごとのように思えてきて、パソコンのまえでキーを打つ手が震えてしまった。

どちらが東軍で、どちらが西軍なのか。

関ヶ原の戦いに於いて、なかなか決断を下せずに家康を激怒させた小早川秀秋の心境だ。

このまま一方に軍配を上げることなく、両者の健闘を讃えて終わることも考えたが、それでは天下獲りの野望に燃えるも志半ばで倒れた、他の武将( アイドル )たちが報われない。

所詮アイドルの世界は弱肉強食。弱者は強者の糧となる非情の世界なのだ。

私はここに宣言する。

先週のグラビアを制したのは、ヤングサンデーの川村ゆきえであると。

戦いは終わった。両者一歩も譲らぬ、実力伯仲の正しく総力戦であった。

勝負を分けたのはただ一つ。

私が脚よりも胸が好きだったからに他ならない。

紙一重の差ではあるが、それでも勝利は勝利である。勝利者を心から讃えたい。

しかし、戦場をひっそりと去った敗者にも拍手を贈りたい。彼女がいたからこそ、今回の名勝負が生まれたのだから。それを忘れてはいけない。

今、私は心地よい疲労感のなかにある。心はとても穏やかで、少しの揺らぎもない。

しかし、この幸福で平穏な時間もすぐに終わる。

新たな戦いはもう始まっているのだ。

新しい勝者と新しい敗者がまた生まれるのだ。

だれが泣き、だれが笑うのか。

アイドルたちの戦いは永遠に終わらない。

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2008年5月11日 (日)

NO.20『堀内賢雄』

先日(?)新シリーズに入ったアニメBLEACHをみてみた。

オリジナルの話になるのはWジャンプで知っていた。

だが、本誌の話は過去編に突入している。

そこには、白哉兄様も藍染さんも海燕さんも出ている。

私の好きな声優・マイビック3が揃うじゃないか!

オリジナル挟むよりさっさとソコまで行けやオラぁ!!

と、思いながらも置鮎さんだけでも…と僅かな希望を抱き、

見たのである。

そのオリジナル話、三番隊に新たな隊長が来るという展開なのだが。

その新たな隊長さんの声が、堀内賢雄氏だったのだ。

そういえば、かの方については語っていなかった事を思い出したので

今回いってみようと思う。

堀内賢雄氏を始めて声=名前で最初から認識して聞いたのは、

やはりアンジェリークだろう。

しかしこの方、アニメよりも洋楽の吹き替えの方が馴染み深いのではないだろうか?

その最たるエピソードが私の相方だ。

彼女はオスカーから堀内賢雄氏のファンになった。

が、それ以前からこの方の声を認知していたのが洋ドラマの「フルハウス」だ。

ご存知N〇Kで放送していた(されている?)ドラマだが。

そのジェシーを見て、「なんて日本語の上手い外人さんだ」と幼心に思ったそうな……。

いやいやいやいやいや、それ違うから!

そんな日本語上手いぎゃーじんさんいないから!!

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2008年5月 6日 (火)

マリー・アントワネットの時計 ――または、ある時計蒐集家の手紙

※ この手紙は、長い間空き家となっていたある旧家の、書斎の隠し戸棚に古い懐中時計とともに納められていたものである。

『 私は時計の蒐集を生き甲斐としておりました。この度、長い年月をかけて集めたコレクションを、自らの不徳のいたすところによって手放さねばならなくなったのですが、その中にあって、どうしてもこれだけは人心の分かる方に所持して頂きたいと願って止まない品があり、それを隠し戸棚にこの手紙を添えて納めた次第です。

 派手な装飾はなく、複雑な機構も備えない、この一見して簡素で、取り立てて目を惹くところのない時計に何故私が特段の思いを抱くに至ったのか。それをお分かりいただくのは甚だ困難と思われますが、何かしら通ずるもののあることを願って、この時計の製作者と依頼者について私の知っていることを書き記そうと思います。

 この時計は不世出の天才時計師アブラアン・ルイ・ブレゲが、フランス王妃マリー・アントワネットの依頼を受けて製作した「BREGUET(ブレゲ)No.179」です。

 ブレゲは一七四七年一月一〇日、スイスのヌーシャテル地方で生を受けました。この地方の住民が皆プロテスタントであったことと、ブレゲ家が何世代にも亘って牧師を輩出してきたことから、赤子にはごく自然に旧約聖書からとった〝アブラアン〟という名がつけられました。

 幼少期のブレゲは、夢想癖が強く、集中力に欠けるとして、学校での評価は芳しくありませんでした。しかし、乳幼児死亡率の高かった当時にあって、父親が旅館の館主であるという経済的に恵まれた環境に浴していたアブラアンは幸福だったといえます。また旅館の宿泊客たちが話すまだ見ぬ異国の話や興味深いニュースは、少年ブレゲの好奇心を大いに刺激する材料となったといいます。

 穏やかで何不自由ない生活を送ってきたブレゲですが、彼が十一歳のとき、父親の急死という突然の悲劇が一家を襲います。四人の子供を抱えたブレゲの母親は、家庭に父親が必要と考え、再婚を決意します。この再婚相手の職業が時計職人だったことが、少年の進むべき道を決定付けます。

 十五歳で学校を退学し、時計職人になる修行を始めたブレゲは、まもなく義父の知人で、フランスはヴェルサイユに工房を構える時計師の下に奉公に出ます。ブレゲはそのときのことを後に手紙でこう綴っています。

「 自分を鍛え上げたいという止みがたい欲求のために、私は故郷のスイスを去ってフランスに移り、ここに腰を落ちつけたのです。この国が職人の才能を開花させることのできる唯一の国と信じて疑わないからです。」

 当時のヴェルサイユは、「最愛王」と呼ばれたルイ十五世が宮殿に君臨し、ヨーロッパ全土からやって来た多くの芸術家や職人たちが、その技術や華やかさを競い合う場でした。
スイスの片田舎からやって来た十五歳の少年にとっては、見るもの全てが、さぞ魅惑に満ちたものに映ったことでしょう。

 ブレゲが独立し自らの工房を構えるのは、それから十三年後の一七七五年のことです。

 一方、マリー・アントワネットは、一七五五年一一月二日、オーストリア・ハプスブルグ家の十一女としてウィーンに生まれました。

 一七七〇年五月一六日、十五歳になったアントワネットは、後にルイ十六世となるフランス王太子と結婚します。彼女は、王太子から婚礼の祝い品として五十二個の嗅ぎ煙草入れと五十一個の時計を贈られ、その豪奢な品全てを式の来賓者たちに惜しげもなく振舞ったといいます。

 アントワネットとブレゲの出会いの経緯については、詳細な資料が存在しないため定かではありませんが、恐らくその媒介者となったのは、パリに来てからのブレゲの庇護者であったマリー神父ではないかと考えられています。一七八二年にブレゲはアントワネットのために懐中時計を製作していますが、これに「10/82」という刻印が記されています。この数字は一七八二年の一〇月に仕上げられたことを示しています。この年はマリー神父が、王弟であるアルトワ伯爵の助任家庭教師に任命された年でもあるため、これをきっかけとして初めてブレゲは国王と王妃に謁見することができたのだろうと思われます。

 王室御用達の宮廷時計師となってからも、ブレゲはその栄誉に奢ることなく、革新的な機構を次々と開発していきました。幼少期、夢想癖が強く、集中力を欠くといわれた少年が、とうとう時計製作の世界において寵児と呼ばれる存在になったのです。

 翌年、ブレゲは王妃の警護官という匿名の使者から驚くべき注文を受けます。それはあらゆる複雑機構と最新のデザインの粋を集めた最高の時計を作って欲しいという申し出でした。納期も価格の制限も全くなしという規格外の注文に、ブレゲは大喜びし製作に着手します。こうして作られたのが「マリー・アントワネット」と称される伝説の時計「No.160」です。結局、この時計は長い中断をへてブレゲの息子の指揮のもとでようやく完成したため王妃の手に渡ることはありませんでしたが、その存在は今に至るも時計に関係する者全てにとっての憧れです。この年、ブレゲ――三十六歳、アントワネット――二十八歳。片や時計師として、片や王妃として、彼らはきっとこの伝説の時計に象徴されるように、その人生において最も輝きに満ちた時を過ごしていたことでしょう。

 まもなくしてパリに暗雲が立ち込めだします。一七八九年七月一四日のバスティーユ牢獄の襲撃を契機とするフランス革命です。革命の火は、王政や封建制度といった当時の社会体制に不満を持つ人々の手によって各地に飛び火し、その進展とともにブレゲの上顧客であった宮廷の王族たちは、立場的にも金銭的にも追い詰められていきました。

 中でも民衆が最も強くその憎悪の矛を向けたのが、ヴェルサイユの宮廷、なかんずく奢侈と享楽の象徴とされていた王妃マリー・アントワネットでした。

 革命の影響によって時計代金の回収が困難になった結果、ついにブレゲの会社の財政は逼迫します。時計師としてこれまでどおり新作に力を注ぐべきか、財政の健全化のため量産にいそしむべきか。絶えず革新的な時計製作に力を注ぎたいブレゲは、彼が時計製作に力を集中できるよう主に会社経営を担ってくれていた共同経営者のジイドと対立、程無くして二人は袂を分かちます。

 こうしてブレゲは自由を手に入れました。が、会社の財政は依然として火の車であり、自由を手に入れた直後から、ブレゲは皮肉にも本来新作に注ぐべき情熱の全てを経営の建て直しに傾けることになります。

 まずやるべきことは、もはや誰も敬意を示すことのなくなったフランス王室に代わる、新たな顧客の開拓でした。ブレゲはそれを外国の王室に求めました。かねてより取引のあったイギリス王室をはじめ、プロイセンの王フリードリッヒ・ヴィルヘルム二世(彼はブレゲの故郷であるヌーシャテル公国の統治者でもありました)、そしてマドリッドに住んでいた知人の協力によりスペイン市場をも主要な供給先の一つとすることに成功しました。余談ですが、ブレゲは時計代金の回収のため幾度となくブリテン島に渡っており、そのたびにイギリス王室の金払いの悪さを嘆いています。

 ブレゲが新たな顧客との関係を地道に築きつつあったとき、思いもよらぬ人物が注文をよこします。それは一七九二年八月一三日以来、革命軍によってタンプル塔に幽閉されていたマリー・アントワネットでした。捕らわれの身である彼女は、王宮略奪の際に失った愛用の高価な時計の代わりに、できるだけ安価な時計を作って欲しいとブレゲに依頼しました。ブレゲはその依頼に応えます。王妃に対する当時のパリの市民感情を考えれば、彼女のために時計を作ったことが悪意を持って吹聴されることで、自らの立場を危うくする可能性もあったはずなのに。そうして製作されたのが「No.179」です。それは至ってシンプルな外観に、暗い塔の中でも時間がわかるよう、音で時刻を知らせるリピーター機能を備えた懐中時計でした。

 ブレゲの独創性への飽くなき追求を物語るエピソードの一つとして、彼が死ぬまでに一つとして同じ時計を作らなかったことがあげられます。しかし、これが真実でないことを私は知っています。彼は生涯でたった一度だけ、同じ時計を作りました。売るためではなく、自らが所有するために。それがこの時計――二つ目の「No.179」です。

 同じナンバーを持つ双子の時計は、アントワネットが死の直前、後にシャルル十世となるアルトワ伯爵にそれを譲るまで、二人の手の中で同じ時を刻んでいたといいます。

 私は他のどんな時計よりもこの時計を愛します。出来るなら永遠にこの手の中に納めておきたいとさえ思います。しかし、この時計の最初の所有者であった天才の胸中に思いを巡らすうち、かの悲運の王妃のように、やはりその価値の分かる方にお譲りするのが最善と考えるに至りました。しかし、私はそのような友人を持ちません。そこで万に一つの僥倖を頼むほかないと、このように子供染みたやり口に縋った次第です。

 伝説の時計に代表される偉大な時計たちは、ときに所有者を超越し、歴史の共有物となります。ですが、私は、時計は常に個人の手にあるべきものと考えます。この時計はある時期、確かに私の掌で、私と同じ時間を生きてくれました。

 だから私はこの時計を愛すのです。

 この時計の新たな持ち主が、もしも私と同じ気持ちであってくれたなら、これ以上の幸せはありません。』

<参考資料>
『 ブレゲ 天才時計師の生涯と遺産 』 ( エマニュエル・ブレゲ著 菅原 茂訳 )

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2008年5月 5日 (月)

大塚愛と未来の不確定性 ( アイドル愚考録 )

このコラムを書くようになってから、コンビニや書店で雑誌のチェックがかかせなくなってしまった。今朝もコンビニで、コラムの題材になりそうなグラビアを探していたのだが、そんな時、ふと目に留まったのが大塚愛が表紙のnonno五月号だった。

細い肩紐のワンピースドレスを着た大塚愛が、こちらに対して真正面に立っている。正直に言って、あまり面白みのない表紙だ。柔らかな布地だからボディラインは出ないし、むき出しになった細い肩も、髪の毛がかぶさっていて視線を邪魔している。

変わった点と言えば、その髪の毛ぐらいか。かなりボリュームのある髪が顔の左右に大きく広がり、さながらジャイアントロボを彷彿とさせる。

そんなことを考えつつも尚、私の視線はそこから離れない。何かがひっかかっているのだ。

少し考えてようやく分かった。違和感のもとはその表情だった。

喜怒哀楽のない、素っ気無い表情なのだが、どこか緊張感が漂っているのだ。一体、それが何に対しての強張りなのか分からず、手がかりを求めて私は棚から雑誌を持ち上げた。

その途端、謎は氷解した。

それまで前に立てかけられた雑誌で下部分が隠れていたのだが、その見えなかった下部分に謎を解く鍵はあったのだ。

大塚愛は両手でスカートをぎゅっと握り、わずかだが上方へ持ち上げていたのである。

ここで書いておかねばならないのが、べつにそのことで下着が見えたり、足が覗いたりしているわけではないということだ。彼女の行為は少しも露出に関与していない。

つまり表面的には何の性的魅力を掻き立てる効果はないのである。

しかし人は想像する生き物である。点が三つあれば人の顔を見出さずにおれない性質を持っている。

たとえ、今はスカートを掴んでいるだけであっても、将来的にはどうなるかは分からない。

あのまま両手はスカート生地を掴んだまま、はるか上方まで高々と上げられるかもしれない。その時、そこから何が現れるのか。明るみに出るのは何か。

あの緊張感漂う表情から、これから行う自らの大胆な行為への恐れ、そしてこちらの反応を観察するような計算高さが窺えやしないか。

写真である以上、それは時間を固着されており、永遠に答えは出ない。疑念が確信に変わることは未来永劫有り得ない。が、それは同時にどんな奇抜な妄想であっても完全に否定することができないことも意味する。

可能性はゼロではないのだ。

最近のグラビアは分かりやすい。一から十までどこに欲望すればいいかを教えてくれるような、過保護なグラビアで溢れている。

それはそれで有り難くもあるのだが、馴れてくるともう少し歯ごたえのあるものが食べたくなるのが人情というものだ。

今回のような、妄想を自由に膨らませる余地を残した、挑発的なグラビアにもっと登場して欲しいものである。

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