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2008年5月20日 (火)

マリー・アントワネットの時計 ――または、ある時計蒐集家の手紙(決定稿)

※ この手紙は、長い間空き家となっていたある旧家の、書斎の隠し戸棚に古い懐中時計とともに納められていたものである。

『 私は時計の蒐集を生き甲斐としておりました。この度、長い年月をかけて集めたコレクションを、自らの不徳のいたすところによって手放さねばならなくなったのですが、その中にあって、どうしてもこれだけは人心の分かる方に所持して頂きたいと願って止まない品があり、それを隠し戸棚にこの手紙を添えて納めた次第です。
 あなたはきっと首を傾げていらっしゃるでしょう。華やかな装飾も、複雑な機構も備えない、この一見して簡素で取り立てて目を惹くところのない古びた懐中時計に、何故私が特段の思いを抱くに至ったのか。それをお分かりいただくのは甚だ困難と思われますが、何かしら通ずるもののあることを願って、この時計の製作者と依頼者について私の知っていることを書き記そうと思います。

 この時計は不世出の天才時計師アブラアン・ルイ・ブレゲが、フランス王妃マリー・アントワネットの依頼を受けて製作した「BREGUET(ブレゲ)No.179」です。
 ブレゲは一七四七年一月一〇日、スイスのヌーシャテル地方で生を受けました。この地方の住民が皆プロテスタントであったことと、ブレゲ家が何世代にも亘って牧師を輩出してきたことから、赤子にはごく自然に旧約聖書からとった〝アブラアン〟という名がつけられました。
 幼少期、ブレゲは夢想癖が強く、集中力に欠ける怠惰な生徒であるとして、学校での評価は芳しくありませんでした。しかし、乳幼児死亡率の高かった当時にあって、父親が旅館の館主であるという経済的に恵まれた環境に浴していたアブラアンは幸福だったといえます。また旅館の宿泊客たちが話すまだ見ぬ異国の話や興味深いニュースは、少年ブレゲの好奇心を大いに刺激する材料となったといいます。
 穏やかで何不自由ない生活を送ってきたブレゲですが、彼が十一歳のとき、突然の悲劇が一家を襲います。父親の急死です。ブレゲの母親は、四人の子供たちに新しい父親が必要と考え、再婚を決意します。この再婚相手の職業が時計職人だったことが、少年の進むべき道を決定付けます。
 十五歳で学校を退学し、時計職人になる修行を始めたブレゲは、まもなく義父の知人で、フランスはヴェルサイユに工房を構える時計師の下に奉公に出ます。ブレゲはそのときのことを後に手紙でこう綴っています。
「 自分を鍛え上げたいという止みがたい欲求のために、私は故郷のスイスを去ってフランスに移り、ここに腰を落ちつけたのです。この国が職人の才能を開花させることのできる唯一の国と信じて疑わないからです。」
 当時のヴェルサイユは、「最愛王」と呼ばれたルイ十五世が宮殿に君臨し、ヨーロッパ全土からやって来た多くの芸術家や職人が、その技術や華やかさを競い合う場でした。スイスの片田舎からやって来た十五歳の少年にとっては、見るもの全てがさぞ魅惑に満ちたものに映ったことでしょう。
 ブレゲが独立し自らの工房を構えるのは、それから十三年後の一七七五年のことです。

 一方、マリー・アントワネットは、一七五五年一一月二日、オーストリア・ハプスブルグ家の十一女としてウィーンに生まれました。
 一七七〇年五月一六日、十五歳になったアントワネットは、後にルイ十六世となるフランス王太子と結婚します。彼女は、王太子から婚礼の祝い品として、五十二個の嗅ぎ煙草入れと、五十一個の時計を贈られ、その豪奢な品全てを式の来賓者たちに惜しげもなく振舞ったといいます。

 アントワネットとブレゲがどのようにして出会ったのかは定かではありませんが、恐らくその仲介をしたのは、パリに来てからのブレゲの庇護者であったマリー神父だろうと考えられます。一七八二年にブレゲはアントワネットのために懐中時計を製作していますが、これに「10/82」という刻印が記されています。この数字は一七八二年の一〇月に仕上げられたことを示しています。この年はマリー神父が、王弟であるアルトワ伯爵の助任家庭教師に任命された年であり、これをきっかけとして初めてブレゲは国王と王妃に謁見することができたのだろうと思われます。
 王室御用達の宮廷時計師となってからも、ブレゲはその栄誉に奢ることなく、革新的な機構を次々と開発していきました。幼少期、夢想癖が強く、集中力に欠けると評された少年が、とうとう時計製作の世界において〝寵児〟と呼ばれる存在になったのです。

 翌年、ブレゲは王妃の警護官という匿名の使者から驚くべき注文を受けます。それはあらゆる複雑機構と最新のデザインの粋を集めた最高の時計を作って欲しいという申し出でした。納期も価格の制限も全くなしという規格外の注文に、ブレゲは大喜びし製作に着手します。こうして作られたのが「マリー・アントワネット」と称される伝説の時計「No.160」です。結局、この時計は長い中断をへてブレゲの息子の指揮のもとでようやく完成したため、終ぞ王妃の手に渡ることはありませんでしたが、その存在は今に至るも時計に関係する者全てにとっての憧れです。この年、ブレゲ――三十六歳、アントワネット――二十八歳。片や時計師として、片や王妃として、彼らはきっとこの伝説の時計に象徴されるように、その人生のうちで最も輝きに満ちた時を過ごしていたことでしょう。

 ところが、まもなくしてパリに暗雲が立ち込めだします。一七八九年七月一四日のバスティーユ牢獄の襲撃を契機とするフランス革命です。革命の火は、王政や封建制度といった当時の社会体制に不満を持つ人々の手によって各地に飛び火し、その進展とともにブレゲの上顧客であった宮廷の王族たちは、立場的にも金銭的にも追い詰められていきました。中でも民衆が最も強くその憎悪の矛を向けたのが、ヴェルサイユの宮廷、就中奢侈と享楽の象徴とされた王妃マリー・アントワネットでした。
 革命の影響で時計代金の回収が困難になった結果、ついにブレゲの会社の財政は逼迫します。時計師としてこれまで通り新作に力を注ぐべきか、財政の健全化のため量産にいそしむべきか。絶えず革新的な時計製作に力を注ぎたいブレゲは、彼が時計製作に没頭できるよう主に会社経営を担ってくれていた共同経営者のジイドと対立、程無くして二人は袂を分かちます。
 こうしてブレゲは自由を手に入れました。が、会社の財政は依然として火の車であり、自由を手に入れた直後から、皮肉にもブレゲは本来新作に注ぐべき情熱の全てを経営の建て直しに傾けることになります。
 まずやるべきことは、もはや誰も敬意を示すことのなくなったフランス王室に代わる、新たな顧客の開拓でした。ブレゲはそれを外国の王室に求めます。その結果、予てより取引のあったイギリス王室をはじめ、プロイセンの王フリードリッヒ・ヴィルヘルム二世(彼はブレゲの故郷であるヌーシャテル公国の統治者でもありました)、そしてマドリッドに住んでいた知人の協力によりスペイン市場をも主要な供給先の一つとすることに成功しました。余談ですが、ブレゲは時計代金の回収のため幾度となくブリテン島に渡っており、その度にイギリス王室の金払いの悪さを嘆いています。

 ブレゲが新たな顧客との関係を地道に築きつつあったとき、思いもよらぬ人物が注文をよこします。それは一七九二年八月一三日以来、革命軍によってタンプル塔に幽閉されていたマリー・アントワネットでした。捕らわれの身である彼女は、王宮略奪の際に失った愛用の高価な時計の代わりに、できるだけ安価な時計を作って欲しいとブレゲに依頼しました。ブレゲはその依頼に応えます。王妃に対する当時のパリの市民感情を考えれば、自らの立場を危うくする可能性もあったはずなのに。そうして製作されたのが「No.179」です。それは至ってシンプルな外観に、暗い塔の中でも時間がわかるよう、音で時刻を知らせるリピーター機能を備えた懐中時計でした。

 ブレゲの独創性への飽くなき追求を物語るエピソードの一つとして、彼が死ぬまでに一つとして同じ時計を作らなかったことがあげられます。しかし、これが真実でないことを私は知っています。彼は生涯でたった一度だけ、同じ時計を作りました。売るためではなく、自らが所有するために。それがこの時計――二つ目の「No.179」です。
 同じナンバーを持つ双子の時計は、アントワネットが死の直前、後にシャルル十世となるアルトワ伯爵にそれを譲るまで、二人の手の中で同じ時を刻んだといいます。

 私のこの時計に対する思いには比類がありません。それは心寄せた異性に向けられるもののようであり、また互いに腹の底まで知り合った同性に対するもののようでもあります。出来ることならずっと共にありたい。永遠にこの手の中に納めておきたいとさえ思います。しかし、この時計の最初の所有者であった天才の胸中に思いを巡らすうち、かの悲運の王妃がそうしたように、やはりその価値の分かる方にお譲りするのが最善と考えるに至りました。しかし、生憎と私はそのような友人を持ちません。そこで万に一つの僥倖を頼むほかないと、このように子供染みたやり口に縋った次第です。

 伝説の時計「No.160」に代表される偉大な時計たちは、ときに所有者を超越し、歴史の共有物となります。ですが、私は、時計は常に個人の手にあるべきものと考えます。この時計はある時期、確かに私の掌で、私と同じ時間を生きてくれました。
 だから私はこの時計を愛すのです。
 この時計の新たな持ち主がもし私と同じ気持ちであってくれたなら、これ以上の幸せはありません。』

< 参考資料 >
『 ブレゲ 天才時計師の生涯と遺産 』 ( エマニュエル・ブレゲ 著 菅原 茂 訳 )

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