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2009年10月 6日 (火)

海を泳ぐカエル

 沖を目がけたのは忌々しかったからだ。

 僕の町では、毎年夏休みに入る直前の日曜、浜から往復で一キロほど離れたところにある小さな島をゴールとする遠泳大会が行われる。

 浜といっても、海外のリゾートにあるような眩しい白砂と澄んだ波、などという贅沢なものではなく、くすんだ鼠色の砂に、わかめが溶け出したようなビリジアンの波が打ち寄せる、垢抜けない漁師町のそれである。

 参加するのは地元の小学生全員。とはいえ全校合わせても百人ほど。

 低学年の子が一キロも泳ぐと聞いて驚く人もいるようだが、この町の住民には、きちんと泳ぎを習った者はいないにもかかわらず、一人として泳げない者がいないのである。

 スタートのピストルが煙を吐くと、浜辺の生徒たちが一斉に海へと駆け出す。

 応援する父兄や地元の人たちの歓声。海へ飛び込んだ生徒たちは、ある者は一等賞になるため、またある者は隣の友人に負けまいと懸命になって手足を動かす。

 そのときだ、一部の観衆から笑いが漏れ始めるのは。彼らの視線の先にいるのは僕。

 平泳ぎの僕だ。

 この町の子供たちに泳げない者はいない。

 僕も泳げる。

 ただ、平泳ぎしかできないのだ。

 皆がクロールで我先にと水しぶきを上げているのに遅れて僕は最後尾で悠々と平泳ぎ。

 そのせいで僕のあだ名は「カエル」なのだ。

 いっそ泳げないなら誰も僕に参加を強いたりしないだろう。

 なまじっかカエル泳ぎができるせいで、夏は僕にとって一番憂鬱な季節になってしまった。

 だいたい僕はカエルが嫌いなのだ。

 一見グロテスクでありながら、どこかユーモラスだったり、小さくて目立たぬ慎ましやかな生き物かと思いきや、一方では車に轢かれても大の字で堂々としている豪快さがあるなど、印象のコントラストで意図的に魅力をアピールしているようなところが癇に障る。

 陸でも水でも生きていけるという態度も気に入らない。

 そんなこともあり初めからくさくさしていた僕の気持ちは、クロール集団との距離がだいぶ開いた、浜から二三百メートル離れた辺りでいよいよ限界に達し、遂にその進路を沖へと変えさせたのである。

 誰もいない海へ向かって泳ぐ気持ち良さは格別だった。島で折り返して戻ってくるというルールを破ってやった痛快さもそれに拍車を掛けた。

 もしも海と空に境界がなかったなら、果てしなく泳いでいけるのではないかとさえ思えた。

 しかし、しばらくすると今まで高揚感で忘れていた海水の冷たさが急に感じられるようになった。加えて、それまでの自在さが嘘のように、見る見るうちにだるさが猛毒のように全身に回り始めた。

 体と心、どちらが先かはわからないが、そのころになると先までの痛快さはどこへやら、勝手なことをして両親に叱られるのではないか、もしかしたらこのまま浜にも小島にもたどり着けず溺れ死んでしまうのではないか、といった不安が次々に生まれ、胸の内で渦を巻きだしていた。

 戻ればいいことは頭ではわかっていたものの、振り返るのが怖くてできなかった。

 これ以上進みたくはなかったが、機械のように繰り返してきたこの動作は、もはや止められないくらい体に馴染んでしまっていたので、動作はそのままに、指の隙間を空けるなどして掻く水の量を減らすことで速度を落とした。

 カエルだったら陸でも水でも生きてゆけるのに。

 僕は嫌っていたあだ名よりも自分が小さく感じられ惨めな気持ちになったが、同時に、こんなときに思い出すほど大きな存在となったカエルが今まで以上に忌々しく、憎らしくて、目の前にいたら踏み潰してやりたいくらい、頭に血が上った。

 両親を含め、たくさんの人がいる浜にこのままのこのこと引き返していくのは御免だった。

 となれば、ルート通り小島まで泳ぎ着くほかない。

 僕は再び指の間をきっちりと閉め、小島に向けて大きく水を掻き始めた。

 これまでとは打って変わって小島だけを視界に入れて一心不乱に手足を動かした。

 だるさが消えることはなかったが、海水の冷たさはいつのまにやら消えていた。

 荒い息を続けると、次第に咽喉の奥が焼けるように熱くなってきた。

 真っ白な頭の中を、ただ知っているだけの言葉が無意味にぐるぐると駆け巡った。

 もう少し、もう少し。

 不意にカエルの足が砂を蹴った。

 僕は砂浜に上がるとそのまま轢かれたカエルのように大の字になった。

 目を開けているのも億劫で瞼を閉じた。

 島で大会の進行を監視していた教師の一人が、だいぶ遅れてやってきた僕を見つけ大丈夫か、と話しかけてきた。

 僕は彼にカエルは陸と水の両方で生きられてずるい、と言った。

 すると彼は、両生類は陸と水の両方で生きられるのではなく、陸と水の両方がないと生きられないのだ、カエルは弱い生き物なのだ、と答えた。

 僕はそれを聞いてなんだか嬉しくなってしまった。

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