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2010年9月28日 (火)

映画レビュー 「絞死刑」

 ラピュタ阿佐ヶ谷の佐藤慶特集で大島渚監督の 『 絞死刑 』 を見てきました。

※ 内容に関しては、上にあるアマゾンのリンクか、ウィキペディア( 『 絞死刑 』 )をご参照ください。

 とても面白かったです。

 僕はこの作品を「死刑制度をテーマにした作品」というより、「死刑制度を題材にして、日常と非日常というテーマについて描いた作品」ではないだろうかと思いました。

 日常とか非日常なんていってもわかりにくいと思いますが、日常というのは普段見えている面のことで、非日常というのは普段見えていない面のこと、という感じに考えてください。

 人間が普通に生活している分には、非日常の面というのはなかなか見えません。

それが見える一番端的な例が戦争です。

 戦争状態に置かれると人は、平時とは違った振る舞いをします。

 その振る舞いはときに平時では考えられないような残虐な行為であったりするわけですが、そういう残虐な行為をした人が平時でも乱暴者だったりするかというと決してそうではないのです。

 確か、遠藤周作の小説で、近所のおっちゃんが戦争で人を殺した話を銭湯で自慢げに話すというエピソードがあったと思うのですが、このおっちゃんが残虐性の高い話をこともなげに話せるのは、それが日常と切り離された非日常のことであるからです。

 つまり日常と非日常は完全に別個のものなんですね。

 映画の中でも佐藤慶演じる所長が酒席で戦場において行われた処刑に加わった話をしますが、所長はその後罪に問われることなく公務員として普通に生活できていますし、周囲の人間も彼をその事実をもって残虐な人間だと見ているわけでもないので、やっぱりここでも日常と非日常とは分けて考えられているわけです。

 言い換えれば、社会がそういうふうに認知してくれているわけです。

 ただ、戦争が終わってしまうと、今まで国が用意してくれていた戦場という、非日常を体験する場がなくなってしまいます。

 しかし、場がなくなっても、人間というのは必ず非日常的部分を心に持っています。

 人によっては、それを小説や映画のようなフィクションの世界に浸ることで発散したりすることもできるわけですが、中にはそういう代替手段を持たない人もいます。

 さあ困った。

 こうなると日常の中で非日常的行為に出るしかありません。

 映画の中でRのモノローグにおいて「日常と非日常がからみ合って云々」というような感じのセリフがあったと思うんですが、これはおそらくそういうことだと思います。

 日常と非日常。

 そこが日常か非日常かは、結局は当人の認識の問題なので、当人は非日常だと思って行ったことが、日常の法によって裁かれてしまう。

 しかもその結果執行される刑が死刑、すなわち殺人という非日常的行為であるという皮肉。

 さらにいうなら、その死刑を実際に行うのは、一部の特権階級やエリートのような特殊な人間ではなく、日常において僕らの周りに普通に存在している公務員(刑務官)であり、彼らは非日常的行為である殺人を、日常である仕事の一環として行うわけです。

 これが日常と非日常の絡まりです。

 で、それは映画の展開自体にも色濃く出ております。

 後半あたりからシュールな部分と現実的なやりとりがゴチャ混ぜになってくるという展開になるのは、これまでのところで僕が書いてきたようなことを映画表現として満を持して前面にだした結果なのではないかというふうに思うのです。

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