●小説

2009年10月 6日 (火)

海を泳ぐカエル

 沖を目がけたのは忌々しかったからだ。

 僕の町では、毎年夏休みに入る直前の日曜、浜から往復で一キロほど離れたところにある小さな島をゴールとする遠泳大会が行われる。

 浜といっても、海外のリゾートにあるような眩しい白砂と澄んだ波、などという贅沢なものではなく、くすんだ鼠色の砂に、わかめが溶け出したようなビリジアンの波が打ち寄せる、垢抜けない漁師町のそれである。

 参加するのは地元の小学生全員。とはいえ全校合わせても百人ほど。

 低学年の子が一キロも泳ぐと聞いて驚く人もいるようだが、この町の住民には、きちんと泳ぎを習った者はいないにもかかわらず、一人として泳げない者がいないのである。

 スタートのピストルが煙を吐くと、浜辺の生徒たちが一斉に海へと駆け出す。

 応援する父兄や地元の人たちの歓声。海へ飛び込んだ生徒たちは、ある者は一等賞になるため、またある者は隣の友人に負けまいと懸命になって手足を動かす。

 そのときだ、一部の観衆から笑いが漏れ始めるのは。彼らの視線の先にいるのは僕。

 平泳ぎの僕だ。

 この町の子供たちに泳げない者はいない。

 僕も泳げる。

 ただ、平泳ぎしかできないのだ。

 皆がクロールで我先にと水しぶきを上げているのに遅れて僕は最後尾で悠々と平泳ぎ。

 そのせいで僕のあだ名は「カエル」なのだ。

 いっそ泳げないなら誰も僕に参加を強いたりしないだろう。

 なまじっかカエル泳ぎができるせいで、夏は僕にとって一番憂鬱な季節になってしまった。

 だいたい僕はカエルが嫌いなのだ。

 一見グロテスクでありながら、どこかユーモラスだったり、小さくて目立たぬ慎ましやかな生き物かと思いきや、一方では車に轢かれても大の字で堂々としている豪快さがあるなど、印象のコントラストで意図的に魅力をアピールしているようなところが癇に障る。

 陸でも水でも生きていけるという態度も気に入らない。

 そんなこともあり初めからくさくさしていた僕の気持ちは、クロール集団との距離がだいぶ開いた、浜から二三百メートル離れた辺りでいよいよ限界に達し、遂にその進路を沖へと変えさせたのである。

 誰もいない海へ向かって泳ぐ気持ち良さは格別だった。島で折り返して戻ってくるというルールを破ってやった痛快さもそれに拍車を掛けた。

 もしも海と空に境界がなかったなら、果てしなく泳いでいけるのではないかとさえ思えた。

 しかし、しばらくすると今まで高揚感で忘れていた海水の冷たさが急に感じられるようになった。加えて、それまでの自在さが嘘のように、見る見るうちにだるさが猛毒のように全身に回り始めた。

 体と心、どちらが先かはわからないが、そのころになると先までの痛快さはどこへやら、勝手なことをして両親に叱られるのではないか、もしかしたらこのまま浜にも小島にもたどり着けず溺れ死んでしまうのではないか、といった不安が次々に生まれ、胸の内で渦を巻きだしていた。

 戻ればいいことは頭ではわかっていたものの、振り返るのが怖くてできなかった。

 これ以上進みたくはなかったが、機械のように繰り返してきたこの動作は、もはや止められないくらい体に馴染んでしまっていたので、動作はそのままに、指の隙間を空けるなどして掻く水の量を減らすことで速度を落とした。

 カエルだったら陸でも水でも生きてゆけるのに。

 僕は嫌っていたあだ名よりも自分が小さく感じられ惨めな気持ちになったが、同時に、こんなときに思い出すほど大きな存在となったカエルが今まで以上に忌々しく、憎らしくて、目の前にいたら踏み潰してやりたいくらい、頭に血が上った。

 両親を含め、たくさんの人がいる浜にこのままのこのこと引き返していくのは御免だった。

 となれば、ルート通り小島まで泳ぎ着くほかない。

 僕は再び指の間をきっちりと閉め、小島に向けて大きく水を掻き始めた。

 これまでとは打って変わって小島だけを視界に入れて一心不乱に手足を動かした。

 だるさが消えることはなかったが、海水の冷たさはいつのまにやら消えていた。

 荒い息を続けると、次第に咽喉の奥が焼けるように熱くなってきた。

 真っ白な頭の中を、ただ知っているだけの言葉が無意味にぐるぐると駆け巡った。

 もう少し、もう少し。

 不意にカエルの足が砂を蹴った。

 僕は砂浜に上がるとそのまま轢かれたカエルのように大の字になった。

 目を開けているのも億劫で瞼を閉じた。

 島で大会の進行を監視していた教師の一人が、だいぶ遅れてやってきた僕を見つけ大丈夫か、と話しかけてきた。

 僕は彼にカエルは陸と水の両方で生きられてずるい、と言った。

 すると彼は、両生類は陸と水の両方で生きられるのではなく、陸と水の両方がないと生きられないのだ、カエルは弱い生き物なのだ、と答えた。

 僕はそれを聞いてなんだか嬉しくなってしまった。

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2008年5月20日 (火)

マリー・アントワネットの時計 ――または、ある時計蒐集家の手紙(決定稿)

※ この手紙は、長い間空き家となっていたある旧家の、書斎の隠し戸棚に古い懐中時計とともに納められていたものである。

『 私は時計の蒐集を生き甲斐としておりました。この度、長い年月をかけて集めたコレクションを、自らの不徳のいたすところによって手放さねばならなくなったのですが、その中にあって、どうしてもこれだけは人心の分かる方に所持して頂きたいと願って止まない品があり、それを隠し戸棚にこの手紙を添えて納めた次第です。
 あなたはきっと首を傾げていらっしゃるでしょう。華やかな装飾も、複雑な機構も備えない、この一見して簡素で取り立てて目を惹くところのない古びた懐中時計に、何故私が特段の思いを抱くに至ったのか。それをお分かりいただくのは甚だ困難と思われますが、何かしら通ずるもののあることを願って、この時計の製作者と依頼者について私の知っていることを書き記そうと思います。

 この時計は不世出の天才時計師アブラアン・ルイ・ブレゲが、フランス王妃マリー・アントワネットの依頼を受けて製作した「BREGUET(ブレゲ)No.179」です。
 ブレゲは一七四七年一月一〇日、スイスのヌーシャテル地方で生を受けました。この地方の住民が皆プロテスタントであったことと、ブレゲ家が何世代にも亘って牧師を輩出してきたことから、赤子にはごく自然に旧約聖書からとった〝アブラアン〟という名がつけられました。
 幼少期、ブレゲは夢想癖が強く、集中力に欠ける怠惰な生徒であるとして、学校での評価は芳しくありませんでした。しかし、乳幼児死亡率の高かった当時にあって、父親が旅館の館主であるという経済的に恵まれた環境に浴していたアブラアンは幸福だったといえます。また旅館の宿泊客たちが話すまだ見ぬ異国の話や興味深いニュースは、少年ブレゲの好奇心を大いに刺激する材料となったといいます。
 穏やかで何不自由ない生活を送ってきたブレゲですが、彼が十一歳のとき、突然の悲劇が一家を襲います。父親の急死です。ブレゲの母親は、四人の子供たちに新しい父親が必要と考え、再婚を決意します。この再婚相手の職業が時計職人だったことが、少年の進むべき道を決定付けます。
 十五歳で学校を退学し、時計職人になる修行を始めたブレゲは、まもなく義父の知人で、フランスはヴェルサイユに工房を構える時計師の下に奉公に出ます。ブレゲはそのときのことを後に手紙でこう綴っています。
「 自分を鍛え上げたいという止みがたい欲求のために、私は故郷のスイスを去ってフランスに移り、ここに腰を落ちつけたのです。この国が職人の才能を開花させることのできる唯一の国と信じて疑わないからです。」
 当時のヴェルサイユは、「最愛王」と呼ばれたルイ十五世が宮殿に君臨し、ヨーロッパ全土からやって来た多くの芸術家や職人が、その技術や華やかさを競い合う場でした。スイスの片田舎からやって来た十五歳の少年にとっては、見るもの全てがさぞ魅惑に満ちたものに映ったことでしょう。
 ブレゲが独立し自らの工房を構えるのは、それから十三年後の一七七五年のことです。

 一方、マリー・アントワネットは、一七五五年一一月二日、オーストリア・ハプスブルグ家の十一女としてウィーンに生まれました。
 一七七〇年五月一六日、十五歳になったアントワネットは、後にルイ十六世となるフランス王太子と結婚します。彼女は、王太子から婚礼の祝い品として、五十二個の嗅ぎ煙草入れと、五十一個の時計を贈られ、その豪奢な品全てを式の来賓者たちに惜しげもなく振舞ったといいます。

 アントワネットとブレゲがどのようにして出会ったのかは定かではありませんが、恐らくその仲介をしたのは、パリに来てからのブレゲの庇護者であったマリー神父だろうと考えられます。一七八二年にブレゲはアントワネットのために懐中時計を製作していますが、これに「10/82」という刻印が記されています。この数字は一七八二年の一〇月に仕上げられたことを示しています。この年はマリー神父が、王弟であるアルトワ伯爵の助任家庭教師に任命された年であり、これをきっかけとして初めてブレゲは国王と王妃に謁見することができたのだろうと思われます。
 王室御用達の宮廷時計師となってからも、ブレゲはその栄誉に奢ることなく、革新的な機構を次々と開発していきました。幼少期、夢想癖が強く、集中力に欠けると評された少年が、とうとう時計製作の世界において〝寵児〟と呼ばれる存在になったのです。

 翌年、ブレゲは王妃の警護官という匿名の使者から驚くべき注文を受けます。それはあらゆる複雑機構と最新のデザインの粋を集めた最高の時計を作って欲しいという申し出でした。納期も価格の制限も全くなしという規格外の注文に、ブレゲは大喜びし製作に着手します。こうして作られたのが「マリー・アントワネット」と称される伝説の時計「No.160」です。結局、この時計は長い中断をへてブレゲの息子の指揮のもとでようやく完成したため、終ぞ王妃の手に渡ることはありませんでしたが、その存在は今に至るも時計に関係する者全てにとっての憧れです。この年、ブレゲ――三十六歳、アントワネット――二十八歳。片や時計師として、片や王妃として、彼らはきっとこの伝説の時計に象徴されるように、その人生のうちで最も輝きに満ちた時を過ごしていたことでしょう。

 ところが、まもなくしてパリに暗雲が立ち込めだします。一七八九年七月一四日のバスティーユ牢獄の襲撃を契機とするフランス革命です。革命の火は、王政や封建制度といった当時の社会体制に不満を持つ人々の手によって各地に飛び火し、その進展とともにブレゲの上顧客であった宮廷の王族たちは、立場的にも金銭的にも追い詰められていきました。中でも民衆が最も強くその憎悪の矛を向けたのが、ヴェルサイユの宮廷、就中奢侈と享楽の象徴とされた王妃マリー・アントワネットでした。
 革命の影響で時計代金の回収が困難になった結果、ついにブレゲの会社の財政は逼迫します。時計師としてこれまで通り新作に力を注ぐべきか、財政の健全化のため量産にいそしむべきか。絶えず革新的な時計製作に力を注ぎたいブレゲは、彼が時計製作に没頭できるよう主に会社経営を担ってくれていた共同経営者のジイドと対立、程無くして二人は袂を分かちます。
 こうしてブレゲは自由を手に入れました。が、会社の財政は依然として火の車であり、自由を手に入れた直後から、皮肉にもブレゲは本来新作に注ぐべき情熱の全てを経営の建て直しに傾けることになります。
 まずやるべきことは、もはや誰も敬意を示すことのなくなったフランス王室に代わる、新たな顧客の開拓でした。ブレゲはそれを外国の王室に求めます。その結果、予てより取引のあったイギリス王室をはじめ、プロイセンの王フリードリッヒ・ヴィルヘルム二世(彼はブレゲの故郷であるヌーシャテル公国の統治者でもありました)、そしてマドリッドに住んでいた知人の協力によりスペイン市場をも主要な供給先の一つとすることに成功しました。余談ですが、ブレゲは時計代金の回収のため幾度となくブリテン島に渡っており、その度にイギリス王室の金払いの悪さを嘆いています。

 ブレゲが新たな顧客との関係を地道に築きつつあったとき、思いもよらぬ人物が注文をよこします。それは一七九二年八月一三日以来、革命軍によってタンプル塔に幽閉されていたマリー・アントワネットでした。捕らわれの身である彼女は、王宮略奪の際に失った愛用の高価な時計の代わりに、できるだけ安価な時計を作って欲しいとブレゲに依頼しました。ブレゲはその依頼に応えます。王妃に対する当時のパリの市民感情を考えれば、自らの立場を危うくする可能性もあったはずなのに。そうして製作されたのが「No.179」です。それは至ってシンプルな外観に、暗い塔の中でも時間がわかるよう、音で時刻を知らせるリピーター機能を備えた懐中時計でした。

 ブレゲの独創性への飽くなき追求を物語るエピソードの一つとして、彼が死ぬまでに一つとして同じ時計を作らなかったことがあげられます。しかし、これが真実でないことを私は知っています。彼は生涯でたった一度だけ、同じ時計を作りました。売るためではなく、自らが所有するために。それがこの時計――二つ目の「No.179」です。
 同じナンバーを持つ双子の時計は、アントワネットが死の直前、後にシャルル十世となるアルトワ伯爵にそれを譲るまで、二人の手の中で同じ時を刻んだといいます。

 私のこの時計に対する思いには比類がありません。それは心寄せた異性に向けられるもののようであり、また互いに腹の底まで知り合った同性に対するもののようでもあります。出来ることならずっと共にありたい。永遠にこの手の中に納めておきたいとさえ思います。しかし、この時計の最初の所有者であった天才の胸中に思いを巡らすうち、かの悲運の王妃がそうしたように、やはりその価値の分かる方にお譲りするのが最善と考えるに至りました。しかし、生憎と私はそのような友人を持ちません。そこで万に一つの僥倖を頼むほかないと、このように子供染みたやり口に縋った次第です。

 伝説の時計「No.160」に代表される偉大な時計たちは、ときに所有者を超越し、歴史の共有物となります。ですが、私は、時計は常に個人の手にあるべきものと考えます。この時計はある時期、確かに私の掌で、私と同じ時間を生きてくれました。
 だから私はこの時計を愛すのです。
 この時計の新たな持ち主がもし私と同じ気持ちであってくれたなら、これ以上の幸せはありません。』

< 参考資料 >
『 ブレゲ 天才時計師の生涯と遺産 』 ( エマニュエル・ブレゲ 著 菅原 茂 訳 )

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2008年5月 6日 (火)

マリー・アントワネットの時計 ――または、ある時計蒐集家の手紙

※ この手紙は、長い間空き家となっていたある旧家の、書斎の隠し戸棚に古い懐中時計とともに納められていたものである。

『 私は時計の蒐集を生き甲斐としておりました。この度、長い年月をかけて集めたコレクションを、自らの不徳のいたすところによって手放さねばならなくなったのですが、その中にあって、どうしてもこれだけは人心の分かる方に所持して頂きたいと願って止まない品があり、それを隠し戸棚にこの手紙を添えて納めた次第です。

 派手な装飾はなく、複雑な機構も備えない、この一見して簡素で、取り立てて目を惹くところのない時計に何故私が特段の思いを抱くに至ったのか。それをお分かりいただくのは甚だ困難と思われますが、何かしら通ずるもののあることを願って、この時計の製作者と依頼者について私の知っていることを書き記そうと思います。

 この時計は不世出の天才時計師アブラアン・ルイ・ブレゲが、フランス王妃マリー・アントワネットの依頼を受けて製作した「BREGUET(ブレゲ)No.179」です。

 ブレゲは一七四七年一月一〇日、スイスのヌーシャテル地方で生を受けました。この地方の住民が皆プロテスタントであったことと、ブレゲ家が何世代にも亘って牧師を輩出してきたことから、赤子にはごく自然に旧約聖書からとった〝アブラアン〟という名がつけられました。

 幼少期のブレゲは、夢想癖が強く、集中力に欠けるとして、学校での評価は芳しくありませんでした。しかし、乳幼児死亡率の高かった当時にあって、父親が旅館の館主であるという経済的に恵まれた環境に浴していたアブラアンは幸福だったといえます。また旅館の宿泊客たちが話すまだ見ぬ異国の話や興味深いニュースは、少年ブレゲの好奇心を大いに刺激する材料となったといいます。

 穏やかで何不自由ない生活を送ってきたブレゲですが、彼が十一歳のとき、父親の急死という突然の悲劇が一家を襲います。四人の子供を抱えたブレゲの母親は、家庭に父親が必要と考え、再婚を決意します。この再婚相手の職業が時計職人だったことが、少年の進むべき道を決定付けます。

 十五歳で学校を退学し、時計職人になる修行を始めたブレゲは、まもなく義父の知人で、フランスはヴェルサイユに工房を構える時計師の下に奉公に出ます。ブレゲはそのときのことを後に手紙でこう綴っています。

「 自分を鍛え上げたいという止みがたい欲求のために、私は故郷のスイスを去ってフランスに移り、ここに腰を落ちつけたのです。この国が職人の才能を開花させることのできる唯一の国と信じて疑わないからです。」

 当時のヴェルサイユは、「最愛王」と呼ばれたルイ十五世が宮殿に君臨し、ヨーロッパ全土からやって来た多くの芸術家や職人たちが、その技術や華やかさを競い合う場でした。
スイスの片田舎からやって来た十五歳の少年にとっては、見るもの全てが、さぞ魅惑に満ちたものに映ったことでしょう。

 ブレゲが独立し自らの工房を構えるのは、それから十三年後の一七七五年のことです。

 一方、マリー・アントワネットは、一七五五年一一月二日、オーストリア・ハプスブルグ家の十一女としてウィーンに生まれました。

 一七七〇年五月一六日、十五歳になったアントワネットは、後にルイ十六世となるフランス王太子と結婚します。彼女は、王太子から婚礼の祝い品として五十二個の嗅ぎ煙草入れと五十一個の時計を贈られ、その豪奢な品全てを式の来賓者たちに惜しげもなく振舞ったといいます。

 アントワネットとブレゲの出会いの経緯については、詳細な資料が存在しないため定かではありませんが、恐らくその媒介者となったのは、パリに来てからのブレゲの庇護者であったマリー神父ではないかと考えられています。一七八二年にブレゲはアントワネットのために懐中時計を製作していますが、これに「10/82」という刻印が記されています。この数字は一七八二年の一〇月に仕上げられたことを示しています。この年はマリー神父が、王弟であるアルトワ伯爵の助任家庭教師に任命された年でもあるため、これをきっかけとして初めてブレゲは国王と王妃に謁見することができたのだろうと思われます。

 王室御用達の宮廷時計師となってからも、ブレゲはその栄誉に奢ることなく、革新的な機構を次々と開発していきました。幼少期、夢想癖が強く、集中力を欠くといわれた少年が、とうとう時計製作の世界において寵児と呼ばれる存在になったのです。

 翌年、ブレゲは王妃の警護官という匿名の使者から驚くべき注文を受けます。それはあらゆる複雑機構と最新のデザインの粋を集めた最高の時計を作って欲しいという申し出でした。納期も価格の制限も全くなしという規格外の注文に、ブレゲは大喜びし製作に着手します。こうして作られたのが「マリー・アントワネット」と称される伝説の時計「No.160」です。結局、この時計は長い中断をへてブレゲの息子の指揮のもとでようやく完成したため王妃の手に渡ることはありませんでしたが、その存在は今に至るも時計に関係する者全てにとっての憧れです。この年、ブレゲ――三十六歳、アントワネット――二十八歳。片や時計師として、片や王妃として、彼らはきっとこの伝説の時計に象徴されるように、その人生において最も輝きに満ちた時を過ごしていたことでしょう。

 まもなくしてパリに暗雲が立ち込めだします。一七八九年七月一四日のバスティーユ牢獄の襲撃を契機とするフランス革命です。革命の火は、王政や封建制度といった当時の社会体制に不満を持つ人々の手によって各地に飛び火し、その進展とともにブレゲの上顧客であった宮廷の王族たちは、立場的にも金銭的にも追い詰められていきました。

 中でも民衆が最も強くその憎悪の矛を向けたのが、ヴェルサイユの宮廷、なかんずく奢侈と享楽の象徴とされていた王妃マリー・アントワネットでした。

 革命の影響によって時計代金の回収が困難になった結果、ついにブレゲの会社の財政は逼迫します。時計師としてこれまでどおり新作に力を注ぐべきか、財政の健全化のため量産にいそしむべきか。絶えず革新的な時計製作に力を注ぎたいブレゲは、彼が時計製作に力を集中できるよう主に会社経営を担ってくれていた共同経営者のジイドと対立、程無くして二人は袂を分かちます。

 こうしてブレゲは自由を手に入れました。が、会社の財政は依然として火の車であり、自由を手に入れた直後から、ブレゲは皮肉にも本来新作に注ぐべき情熱の全てを経営の建て直しに傾けることになります。

 まずやるべきことは、もはや誰も敬意を示すことのなくなったフランス王室に代わる、新たな顧客の開拓でした。ブレゲはそれを外国の王室に求めました。かねてより取引のあったイギリス王室をはじめ、プロイセンの王フリードリッヒ・ヴィルヘルム二世(彼はブレゲの故郷であるヌーシャテル公国の統治者でもありました)、そしてマドリッドに住んでいた知人の協力によりスペイン市場をも主要な供給先の一つとすることに成功しました。余談ですが、ブレゲは時計代金の回収のため幾度となくブリテン島に渡っており、そのたびにイギリス王室の金払いの悪さを嘆いています。

 ブレゲが新たな顧客との関係を地道に築きつつあったとき、思いもよらぬ人物が注文をよこします。それは一七九二年八月一三日以来、革命軍によってタンプル塔に幽閉されていたマリー・アントワネットでした。捕らわれの身である彼女は、王宮略奪の際に失った愛用の高価な時計の代わりに、できるだけ安価な時計を作って欲しいとブレゲに依頼しました。ブレゲはその依頼に応えます。王妃に対する当時のパリの市民感情を考えれば、彼女のために時計を作ったことが悪意を持って吹聴されることで、自らの立場を危うくする可能性もあったはずなのに。そうして製作されたのが「No.179」です。それは至ってシンプルな外観に、暗い塔の中でも時間がわかるよう、音で時刻を知らせるリピーター機能を備えた懐中時計でした。

 ブレゲの独創性への飽くなき追求を物語るエピソードの一つとして、彼が死ぬまでに一つとして同じ時計を作らなかったことがあげられます。しかし、これが真実でないことを私は知っています。彼は生涯でたった一度だけ、同じ時計を作りました。売るためではなく、自らが所有するために。それがこの時計――二つ目の「No.179」です。

 同じナンバーを持つ双子の時計は、アントワネットが死の直前、後にシャルル十世となるアルトワ伯爵にそれを譲るまで、二人の手の中で同じ時を刻んでいたといいます。

 私は他のどんな時計よりもこの時計を愛します。出来るなら永遠にこの手の中に納めておきたいとさえ思います。しかし、この時計の最初の所有者であった天才の胸中に思いを巡らすうち、かの悲運の王妃のように、やはりその価値の分かる方にお譲りするのが最善と考えるに至りました。しかし、私はそのような友人を持ちません。そこで万に一つの僥倖を頼むほかないと、このように子供染みたやり口に縋った次第です。

 伝説の時計に代表される偉大な時計たちは、ときに所有者を超越し、歴史の共有物となります。ですが、私は、時計は常に個人の手にあるべきものと考えます。この時計はある時期、確かに私の掌で、私と同じ時間を生きてくれました。

 だから私はこの時計を愛すのです。

 この時計の新たな持ち主が、もしも私と同じ気持ちであってくれたなら、これ以上の幸せはありません。』

<参考資料>
『 ブレゲ 天才時計師の生涯と遺産 』 ( エマニュエル・ブレゲ著 菅原 茂訳 )

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2008年3月25日 (火)

マリー・アントワネットの時計 ――または、ある時計蒐集家の手紙(第二稿)

 この手紙は、長い間空き家となっていたとある旧家の、書斎の隠し戸棚に古い懐中時計とともに納められていたものである。
 以下にその全文を掲載する。

『 私は時計の蒐集を生き甲斐としておりました。このたび、長年かかって集めたコレクションを、自らの不徳のいたすところによって手放さねばならなくなったのですが、その中にあって、どうしてもこれだけは人の心のわかる方の手に渡って欲しいと、願ってやまない品があり、それをこの隠し戸棚に手紙を添えて納めた次第です。

 私が何故この時計に特別な思いを抱くようになったのか、それをおわかりいただくことは非常に困難であると思われますが、何かしら通ずるものがあることを願いつつ、この時計の製作者と依頼者について、私の知っていることを書き記そうと思います。

 この時計は不世出の天才時計師アブラアン・ルイ・ブレゲが、フランス王妃マリー・アントワネットの依頼を受け、製作した「BREGUET(ブレゲ)№179」です。

 ブレゲは1747年1月10日にスイスのヌーシャテル地方で生を受けました。
 この地方の住民が皆プロテスタントであったことと、ブレゲ家が何世代にもわたって牧師を輩出してきたことから、赤子にはごく自然に、旧約聖書からとった〝アブラアン〟という名がつけられました。

 ブレゲが時計制作の道を志すようになったのは、彼が11歳のときに父が急死し、しばらくして母が再婚した相手が時計師だったからです。

 15歳で学校を退学し、時計職人になる修行を始めたブレゲは、まもなく義父の知人で、フランスはヴェルサイユに工房を構える、とある時計師の下に奉公に出ます。ブレゲはそのときのことを後に手紙でこう綴っています。
「自分を鍛え上げたいという止みがたい欲求のために、私は故郷のスイスを去ってフランスに移り、ここに腰を落ちつけたのです。この国が職人の才能を開花させることのできる唯一の国と信じて疑わないからです。」

 スイスの片田舎からやってきた15歳の少年にとって大都会パリの壮大な姿はさぞ魅惑に満ちたものに映ったでしょう。

 当時のヴェルサイユは、「最愛王」と呼ばれたルイ15世が宮殿に君臨し、ヨーロッパ全土からやって来た多くの芸術家や職人たちが、その技術や華やかさを競い合う場でもありました。
 宮廷の王族・貴族たちの間では、結婚式など大きな式典の際に来賓に贈り物を振舞うのを慣わしとしていました。そこで時計は嗅ぎ煙草入れと並ぶ、「ロイヤル・ギフト」としての地位を確立しており、彼らにとって富や権力を象徴するものとしてなくてはならぬものでした。

 13年に及ぶ修行を終えたブレゲは、1775年、独立し、自らの工房を構えます。

 一方、マリー・アントワネットは、1755年11月2日、オーストリア・ハプスブルグ家の十一女としてウィーンで生を受けました。

 15歳でフランス王太子と結婚したアントワネットは、王太子から御礼の祝い品として52個の鍵煙草入れと51個の時計を贈られ、これらの品、全てを式の来賓者たちに配ったといいます。

 アントワネットとブレゲがすぐに出会ったかというとそうではありません。ブレゲの名声は既に高まっていましたが、当時のパリの空気は、ヴェルサイユの宮廷、なかんずくマリー・アントワネットを激しく嫌悪するもので、ブレゲとてなかなか国王や王妃に謁見する機会を得ることはできずにいました。

 アントワネットとブレゲがどのようにして出会ったのかについては、詳しい資料が存在しないため定かではありませんが、おそらく二人を引き合わせたのは、パリに来てからのブレゲの庇護者であったマリー神父ではないかと考えられています。

 1782年にブレゲはマリー・アントワネットのために懐中時計を製作したのですが、これには「10/82」という刻印が記されています。この数字は1782年の10月に仕上げられたことを示しています。この年はマリー神父が、王弟であるアルトワ伯爵の助任家庭教師に任命された年でもあるため、おそらくこれをきっかけとして初めてブレゲは国王と王妃に謁見することができたのだろうと思われます。

 王室御用達の宮廷時計師となったことでブレゲの名声はさらに高まり、その顧客リストには国王ルイ16世、王妃マリー・アントワネットの他、ラ・ロシュフコー、ノワイユ、モンテスキューといったフランスの名士たちも名を連ねていたといいます。

 翌年、ブレゲは王妃の警護官という匿名の使者から驚くべき注文を受けます。それはあらゆる複雑機構と最新のデザインの粋を集めた最高の時計を作って欲しいという申し出でした。納期も価格の制限も全くなしという規格外の注文に、ブレゲは大喜びして製作に着手します。こうして作られたのが「マリー・アントワネット」と称される伝説の時計「№160」です。結局、この時計は長い中断をへてブレゲの息子の指揮のもとでようやく完成したため王妃の手に渡ることはありませんでした。時にブレゲ36歳、アントワネット28歳。片や時計師として、片や王妃として、彼らはきっとこの伝説の時計に象徴されるように、その人生のうちで最も輝きに満ちた時を過ごしていたのではないでしょうか。

 それからまもなくして、パリの情勢は次第に抜き差しのならないものへと変化していきます。1789年7月14日のバスティーユ牢獄の襲撃を契機とするフランス革命です。革命の火は、王政や封建制度といった当時の社会体制に不満を持つ人々の手によって各地に飛び火し、その進展とともにブレゲの上顧客であった宮廷の王族たちは、立場的にも金銭的にも追い詰められていきました。

 その影響でブレゲは時計の代金の回収が困難になり、ついに会社の財政は逼迫します。時計師としてこれまでどおり新作に力を注ぐか、財政の健全化のため量産にいそしむか。絶えず革新的な時計製作に力を注ぎたいブレゲは、彼が時計製作に力を集中できるよう主に会社経営を担ってくれていた共同経営者のジイドと対立、ほどなくして二人は袂を分かちます。

 こうしてブレゲは自由を手に入れました。が、会社の財政は依然として火の車であり、自由を手に入れた直後から、ブレゲは皮肉にも本来新作に注ぐべき情熱の全てを経営に傾けることになります。

 まずやるべきことは、もはや誰も敬意を示すことのなくなったフランス王室に代わる、新たな顧客の開拓でした。ブレゲはそれを外国の王室に求めました。かねてより取引のあったイギリス王室をはじめ、プロイセンの王フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世(彼はブレゲの故郷であるヌーシャテル公国の統治者でもありました)、そしてマドリッドに住んでいた知人の協力によりスペイン市場をも主要な供給先の一つとすることに成功しました。余談ですが、ブレゲは幾度となくブリテン島に時計代金の回収のために渡っており、そのたびにイギリス王室の金払いの悪さを嘆いています。

 ブレゲが新たな顧客との関係を地道に築きつつあったとき、思いもよらぬ人物が注文をよこします。それは1792年8月13日以来、革命軍によってタンプル塔に幽閉されていたマリー・アントワネットでした。捕らわれの身である彼女は、王宮略奪の際に失った愛用の高価な時計の代わりに、できるだけ安価な時計を作って欲しいとブレゲに依頼しました。ブレゲはその依頼に応え、「№179」を製作します。それはいたってシンプルな外観に、暗い塔の中でも時間がわかるよう音で時刻を知らせるリピーター機能を備えた懐中時計でした。時計は、彼女が死の直前にこれを、後にシャルル十世となるアルトワ伯爵に譲るまで、その手の中で時を刻んでいたといいます。

 ブレゲは何故アントワネットの依頼に応えたのでしょうか。いまさらフランス王室に貸しを作ったところで何の得にもなりません。加えてブレゲはある時期、国民衛兵・第一部隊の隊員としてタンプル塔を警備する任務に就いており、もし王妃のために時計を作ったことが悪意をもって吹聴されでもしたら、自らの立場に悪影響を及ぼす可能性すらあったかもしれません。にもかかわらず彼は時計を作りました。残念ながらその真意を知る術はありません。

 ブレゲの独創性への飽くなき追求を物語るエピソードの一つとして、彼が死ぬまでに一つとして同じ時計を作らなかったことがあげられます。しかし、これが真実でないことを私は知っています。彼は生涯でたった一度だけ、同じ時計を作りました。売るためにではなく、自らが所有するために。それがこの時計――二つ目の「№179」です。

 同じナンバーをつけられた二つの時計は、彼女がそれを手放すまで、両者の手の中で同じ時を刻み続けました。

 私は他のどんな時計よりもこの時計を愛します。

 この時計の新たな持ち主が、もしも私と同じ気持ちであってくれたなら、これ以上の幸せはありません。』

―― fin.

<参考資料> エマニュエル・ブレゲ 著 / 菅原 茂 訳 『 ブレゲ 天才時計師の生涯と遺産 』

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2008年2月19日 (火)

マリー・アントワネットの時計  ―または、ある時計蒐集家の手紙

 この手紙は、長い間空き家となっていたとある旧家の、書斎の隠し戸棚に、古い懐中時計とともに納められていたものである。

 以下にその全文を掲載する。


『 私は時計の蒐集を生き甲斐としておりました。

 この時計は、私がこれまで所蔵してきた数多くの時計の中にあって、最も大切に思っているものです。

 これは天才時計師アブラアン・ルイ・ブレゲが、フランス王妃マリー・アントワネットに依頼されて作った「BREGUET(ブレゲ)№179」の完全な複製です。

 時計史において最もその発展に寄与した人物を一人あげろと言われれば、誰もがブレゲの名を口にするでしょう。

 ブレゲは1747年1月10日、スイス・ヌーシャテル地方の生まれです。

 この地方の住民が皆プロテスタントであったことと、ブレゲ家が何世代にも渡って牧師を輩出してきたことから、赤子にはごく自然に、旧約聖書からとった〝アブラアン〟という名前がつけられました。

 ブレゲ家は比較的裕福で、アブラアンは恵まれた環境の下、なに不自由ない少年期を過ごします。

 しかし、彼が11歳のとき、突然の不幸が一家を襲います。

 父親が39歳の若さで急死してしまったのです。

 アブラアンを含め、5人の子供を抱えた母親マリーは、子供たちに新たな家庭が必要だと感じ、夫の従兄弟にあたる29歳のタッテと再婚します。

 この新しい父親の職業が時計師でした。

 1762年に15歳で学校を退学し、時計職人になる修行を始めたブレゲは、まもなく義父の知人で、フランスはヴェルサイユに工房を構える時計師の下に奉公に出ます。

 1775年、ブレゲは独立し、自らの工房を構えます。

 それからの十数年で技術面、美観面の両面において数々の画期的な発明、革新を行った彼は、やがて王室御用達の宮廷時計師となります。

 その顧客リストには国王ルイ16世、王妃マリー・アントワネットのほか、ラ・ロシュフーコー、ノワイユ、モンテスキューといったフランスの名士たちも名を連ねていたといいます。

 その後もブレゲは次々と革新的な仕事をやってのけます。

 が、それとは対照的に、パリの情勢は徐々に抜き差しのならないものへと変わっていきます。

 1789年7月14日のバスティーユ牢獄の襲撃を契機とするフランス革命です。

 革命の火は、王政や封建制度といった当時の社会体制に不満を持つ人々の手によって各地に飛び火し、その進展とともにブレゲの上顧客であった宮廷の王族たちは、立場的にも金銭的にも追い詰められていきました。

 その影響で時計の代金の回収が困難になったこともあり、ブレゲの会社の財政は逼迫。

 ついに長年の経堂経営者であったジイドと意見が対立してしまいます。

 絶えず新作に力を注ぎ、量産に力を注ぐことを良しとしないブレゲと、会社の財政面での健全化を求めるジイドとの間にできた溝は深く、結果として二人は袂を分かってしまうのです。

 一人になったブレゲは、外国の王室への販売を一層強化するようになります。

 かねてより取引のあったイギリス王室をはじめ、プロイセンの王フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世、そしてマドリッドに住んでいた知人の協力によりスペインへ市場をも主要な供給先の一つとすることに成功しました。

 ブレゲが国外の顧客との関係を地道に築きつつあったとき、思いもよらぬ人物から注文が来ます。

 それは1792年8月13日以来、革命軍によってタンプル塔に幽閉されていたマリー・アントワネットでした。

 捕らわれの身である彼女は、王宮略奪の際に失った愛用の高価な時計の代わりに、できるだけ安価な時計を作って欲しいとブレゲに依頼しました。

 ブレゲはその依頼に応え、「№179」を製作します。

 それはいたってシンプルな外観に、暗い塔の中でも時間がわかるよう音で時刻を知らせるリピーター機能を備えた懐中時計でした。

 時計は、彼女が死の直前にこれを、後にシャルル十世となるアルトワ伯爵に譲るまで、その手の中で時を刻んでいたといいます。

 ブレゲの独創性へのあくなき追求を物語るエピソードの一つとして、彼が死ぬまでに一つとして同じ時計を作らなかったことがあげられます。

 しかし、これが真実でないことを私は知っています。

 彼は生涯でたった一度だけ同じ時計を作りました。

 それがこの二つ目の「№179」です。

 二つの時計は、彼女がそれを手放すまで、両者の手の中で同じ時を刻み続けました。

 私は他のどんな時計よりもこの時計を愛します。

 この時計の新たな持ち主が、もしも私と同じ気持ちであってくれたなら、これ以上の幸せはありません。 』

<参考資料> エマニュエル・ブレゲ 著 / 菅原 茂 訳 『 ブレゲ 天才時計師の生涯と遺産 』

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2007年9月 8日 (土)

フィートウ

まずは謝ろう。本当に申し訳ない。

何の事かって?台風だよ、台風。

何でお前が台風の事で謝るのか、だって?

いや、色々全国に被害及ぼしてるしさ。

死者だって出てるし、一応謝っとかないと。

…だから何でお前が謝るのかって?

だって、台風が日本に来るのは俺のせいだし。

おいおい、そんな顔するなよ。マジだぜ。

…確かに、海流とか大陸性高気圧とかの影響はあるさ。

でも、台風が日本に来るのは、俺に会いに来てるからなんだ。

いいから聞けよ。

俺の爺さんの話だ。

俺の爺さんは戦争で赤道付近の南太平洋にいたんだ。

海軍で駆逐艦に乗ってたんだそうだ。

でもまあ、アメリカ海軍との激戦でやられてな。

艦は撃沈、爺さんは海に投げ出された。

それから何日も、爺さんは艦の破片に捕まって漂流した。

で、漂流して数日後、爺さんは信じられないものを見たんだ。

海の上に立っている、女の姿を。

それはそれは美しい女で、爺さんはたちまち恋に落ちた。

女のほうもすぐ爺さんに惚れたみたいだ。そう聞いた。

…いや、本当にその女が居たかなんて知らんよ。

爺さんの話さ。

幻覚?まあ、そうかもな。

で、女は爺さんを助けてやると言って来た。

ただし、条件がある。

条件って?自分との子供を作って欲しい、だそうだ。

…解った。でももうちょっと話を聞いてけよ、な?

ま、数十日飲まず食わずだったんだ。

爺さんに選択の余地なんか無いよな。

するとたちまち晴天の空が曇り、スコールが降り出した。

爺さんはそれで喉の渇きを潤した。

さらに、何故か次々と周りに魚が飛び跳ね始めた。

それを食って飢えをしのいだ。

いや、子供を作る話はしてくれなかった。

この話聞いたのは、俺がまだ子供の頃だったからな。

さすがにそんな話は出来なかったんだろうさ。

でも、その女とは海の上で何日か暮らしたそうだ。

漂流してから、日にちの勘定は出来なかったらしいけど。

まあとにかく、数日後。

女が突然別れを告げたそうだ。

爺さんはそのまま海の上で暮らしてもいいくらい女に惚れていた。

でも、ルールらしく、どうしても別れなければいけない。

突然のスコールが収まると女は消えていた。

暫らくして、アメリカ軍の艦船が近くを通りかかった。

爺さんは収容され、そのまま終戦を迎えた。

それからだ。

無事に復員したじいさんの元を、毎年のように訪れてくるんだ。

じいさんとあの女の子供が。

ま、分身、と言ったほうが良いのかもな。

カスリーン、アイオン、ジェーン…。

終戦から暫らくは結構洒落た名前も着いていたっけ。

そう、台風のことさ。

え?台風を生むその女の正体?

爺さんから何も聞いてないよ、そんなの。

でも、赤道付近は「台風が生まれる場所」って言うしなぁ。

それから、台風が来ると決まって爺さんは一人で出かけていく。

そして、台風が去る頃には帰ってくる。

毎回、びしょぬれで満足そうな顔してな。

やがて爺さんは死に、父さんが台風の中を出かけるようになった。

ところがその父さんが、1年前突然交通事故で亡くなった。知ってるだろ?

となると台風が次に目指してくるのは…そう、俺さ。

愛した男の孫の顔を見に、毎年彼女らはやってくるのさ。

…いや、それだけじゃない。

新たな台風の子供を生み出すため、その親を見つけるために。

…ふむ。

ま、信じなくてもいい。単なる与太話さ。

酒の肴くらいにはなっただろう?

うん。

で、俺が先日の台風の中、何処に出かけてたかって?

そりゃお前、秘密さ。

…フィートウちゃん、南国の香りがしたっけ。

可愛かったなぁ…。

*フィートウ
ミクロネシアの花の名前。台風9号のアジア名。

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脳内メイカー

俺はこの世界の主だ。

俺の世界は、この四畳半の部屋。

俺には、この世界だけあればいい。

…。

いや、この世界だけではダメだ。

俺には、命よりも大事なものある。

それが彼女だ。

分からず屋の親や心理ナンタラの先生には見えないが、俺には見える。

彼女は存在するのだ。彼女は俺の理想の女性だ。

身の回りの世話をしてくれる。料理を作ってくれる。

話し相手になってくれる。

想像するだけで好きな格好をさせられる。

そりゃあ…夜には色んな格好で色んな事もするさ。

でも彼女は何をしたって喜んでくれる。

俺がそう望んでいるから。そう妄想したから。

彼女の居るこの世界があれば、俺は生きていける。

そう思っていた。

だが、ある日から彼女の態度がよそよそしくなる。

俺には一切隠し事をしない彼女に、一体何があったのか。

思い切って尋ねると、彼女は言った。

「私は私のすべてをあなたに見せたわ」

「だから今度はあなたが私にすべてを見せて」

何と言うことだ。彼女が反抗した。この世界の主に。

俺は彼女を痛めつけた。死にそうなほど痛めつけても彼女は死なない。

俺がそう望むからだ。

だが、どんなに痛めつけても彼女の反抗的な態度は変わらない。

俺のすべてを見せろといっても、俺のすべては彼女自身じゃないか。

そんなことも解らないのか。俺の妄想から生まれたくせに。


ある日目覚めると、俺の世界から彼女が消えていた。

「あなたには愛想がつきました。出て行きます」とメモを残して。

彼女の消え去った世界。

俺の世界は無限に広がる荒野となった。

あてども無く荒野をさまよう俺。

彼女が居なければ、俺の存在する意味も無い。

彼女は俺のすべてだから。

俺のすべてを失った俺は、どうするべきか。

死だ。

俺はナイフを握り締め、手首を切り裂いた。

だが、俺は死ななかった。

何故だ?

俺の世界の主は、俺なのに、俺の意思で死ねないなんて。

…ああ、解った。

俺も誰かの妄想で作られた存在なんだ。

俺の妄想主が、俺の死ぬ事を望んでいないんだ。彼女と同じように。

畜生、何てことだ。

…おい、聞いてるか、妄想主。俺もお前に愛想が尽きた。

俺もお前の妄想から出て行ってやる!

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