◇ひげ

2009年1月 7日 (水)

アリストテレスの詩学について(二回目)

前回の予告に書いたとおり、今回は筋(ストーリー)について書いてみようと思う。

プロ、アマを問わず物語を作る人間であれば、始めから終わりまで整合性のある筋(ストーリー)を作り出すことの難しさを知っているだろう。破綻をきたしてないか。ご都合主義におちてないか。目を皿のようにして原稿を眺め、一枚書いては破り捨て、一枚書いては破り捨て、を繰り返して結局は一日を棒に振る。脳ミソはどっぷりと疲れたが目の前の原稿は真っ白いまま。ぐったりと重い身体を引き摺って布団にもぐりこむ。明日こそは続きを書こうと誓うが、心の奥では明日なんか来なければよいのに、と呟いている。

そんな創作活動の苦しみが多少は軽減されるかもしれない、ストーリーを作る上でのヒントとなるような、幾つかのポイントをアリストテレスの詩学から紹介したい。

ただし前回も書いたが、この本は大昔に書かれたものであるため、作中に例としてあげられている戯曲が現代人にとって馴染みの薄いものばかりである。モデルとしては適切でない。

そこでこれを大幅に変え、日本人ならば誰しも知っている「桃太郎」をモデルとして扱うことにした。これで多少は分かりやすくなると思う。

単一と複合のストーリー

アリストテレスは、ストーリーには単一と複合の2種類があると書いている。単一のストーリーとは文字通り、ひとつの目的に向かって突き進む主人公の成功、もしくは失敗について書かれたもので、複合のストーリーとは後述する発見と急転を持ち、それらによって主人公の運命が移り変わっていくものを示している。

正直、よく分からない説明になってしまったので、上述したように「桃太郎」で説明したい。

単一のストーリーとは、「桃太郎」の筋そのものである。桃から生まれた桃太郎が犬、猿、雉の三匹の部下を引きつれ鬼ガ島へ渡り、見事に鬼を討ち果たす。この単純にして明快なストーリーラインが単一のストーリーである。

単一という呼び方からすると、複合に比べて一段も二段も劣るような印象を受けるが、分かりやすく力強いストーリーラインであるため、書きたい題材や媒体(少年漫画や児童小説)によっては複合を上回る効果を得られるだろう。

なお、ドラゴンクエストに代表される、初期のRPGゲームはほとんどが単一のストーリーだったと言える。

十分な説明とは言い難いが、これはアリストテレスが単一のストーリーについてほとんど説明していないことが原因である。前回にもすこし書いたが、どうも先生は好き嫌いのはっきりした御仁らしく、また嫌いなものに対しては徹底的に無視を決め込む性質らしい。

次に複合のストーリーだが、これは従来の「桃太郎」にある改良を加えて考えると実に分かりやすい。改良するのは鬼の属性である。本来倒すべき敵という属性しか持たない鬼に、父親という属性を新たに付け加えるのである。

すると、どうなるだろう。

正義の志に燃えた桃太郎は三匹の家来を引き連れて鬼ガ島へ乗り込む。悪逆の限りを尽くす鬼たちを苦難の末に退治し、達成した己の偉業に酔っていたその時、桃太郎は発見するのだ。今まさに打ち倒した鬼の大将こそが、自分の実の父親であるという証拠を。

その瞬間、桃太郎は稀代の英雄から肉親殺しの大罪人へ転落する。

無邪気な正義のヒーロー、桃太郎の苦悩の日々がこれから始まるのである。

察しのよい読者であれば、この展開が多くの作品の中ですでに使われていることにもう気付いていることだろう。

魔王「フハハハ、お前にワシは倒せん」

勇者「なぜだ!」

魔王「ワシがお前の父親だからだ」

勇者「な、なんだって!」

魔王「強くなったな、我が息子よ」

このように、倒すべき敵がじつは父親、という展開は一昔前の少年漫画の王道パターンであった。目の肥えた読者の増えた現代では、流石にこれをそのまま持ち込むことはできないが、手を変え、品を変えれば今でも十分に活用できる、便利なパターンのひとつではあると思われる。

閑話休題。恐らく複合のストーリーとは、自分を発見するストーリーなのだろう。桃太郎は自分が桃からではなく、鬼から生まれたという出生の秘密を知り、本当の自分を発見する。詩学のなかで絶賛されるオイディプス王も、自分が父親を殺し、母親を犯した大罪人である自分を発見する。

近代文学の大半が内的自己の喪失と発見をモチーフとしていることを考えれば、自分を発見する複合のストーリーを学ぶことは現代においても役立つかもしれない。

ちなみに鬼が桃太郎の父親であるというバージョンの「桃太郎」は私の創作ではない。出自は忘れたが、どこかの地方に伝わっていた御伽噺だったと記憶している。

さて、当初の予定ではこのまま、アリストテレスがストーリーを作る上で、必ず含めなければならないとした三つの要素、発見、急転、苦痛についても書くつもりだったのだが、予想していたよりも分量が多くなってしまった。

はなはだ中途半端ではあるのだが、この辺りで一度、休憩をはさみたいと思う。

それでは、ここまで読んで下さった読者の皆さん、お疲れさまでした。また次回、お会いしましょう。

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2008年12月16日 (火)

アリストテレスの詩学について

この処、アイドル愚考録を書きあぐねている。近ごろ私の気に入るようなアイドルが出て来ないということもあるが、もうひとつの理由の方がより大きいと言える。

それはマンネリである。

このコラムは自分の好きなタイプのアイドルについて勝手気ままに筆を走らせているため、必然的に何度も同じアイドルに登場を願うことになる。最初の内はそれもいいが、二度三度と同じ対象が続くと、やがては語る言葉、思想も尽きてくるのが世の道理というもの。書いている最中に「あれ? これって前にも書いたような……」という事が幾度か続き、何だか出来の悪い複製品を作り続けているような、惨めな気分になってきた。

そこで暫らくこれを休止して他のコラムを書こうと思い立った。

では、何をコラムの題材とするべきか?

今まではかなり柔らかめの内容だったので、少しは歯ごたえのある方がよいだろう。そして出来れば読者の創作の一助となるような内容にしたい。

そんなことを考え、アリストテレスの「詩学」を題材にすることにした。

詩学を知らない人のために簡単に説明すると、古代ギリシャの偉大な哲人アリストテレスの芸術論をまとめたものであり、また作劇における優れたテクニック集でもある。随分と昔に書かれたものにも関わらず、その内容は現代にも通用する普遍性を持っている。

洋の東西を問わず、これまで多くの学者、芸術家たちが優れた解説書を出しており、今更私ごときが書く必要があるのか、という感じはあるが、しかしまあ書いてみようと思う。原典がこれだけ優れているのだから、質の悪い水で薄めたところで飲めないということはないだろう。

手始めに、まずは詩学がどんな内容の本なのかを説明したい。

この本は、優れた戯曲、優れた叙事詩とはどういう風に作られていなければならないかを、実際に演じられた劇の場面を引用することで分かりやすく解説したものだ。

(しかし、残念なことにアリストテレスが実例としてあげた劇の多くが現存しておらず、彼が意図したとおりの効果を産んでいない。皮肉なことに、それらの劇は詩学の記述でしか見ることができない)

アリストテレスのやり方はこうだ。

まずは全体(作品)をばらばらに解体する。そして、その小さなパーツ(ストーリー、台詞、キャラクターなど)ひとつひとつについて説明を加える。それぞれのパーツについて理解が深まったところで、もう一度それらを組み合わせて大きな全体(作品)を論評する。

アリストテレスはこの手法により、全ての優れた作品は解明されると考えていた。なぜなら彼の考える最上の芸術作とは、それらのパーツがきっちり納まるべき所に納まっている作品のことだからだ。

アリストテレスの言葉を借りれば、「その全き行動を形作るところの数個の要素は、極めて、密接な関係に融合され、要素のどれ一つでも所を変え、もしくは引き抜かれたならば、全体は支離滅裂するように組み立てられねばならぬ」のである。

すごい鼻息である。ここまではっきり宣言されると、もう少し砕けた、落語の小話のようなストーリーも私は大好きなのですが、と異議申し立てをしたくなるところだが、相手はすでに故人であるし、生きた時代も違う。まあ、こういう考え方もあるよな、と妥協するしかない。

すごい鼻息で思い出したが、詩論を読んで最初に感じたのは「これはギリシャ版枕草子である」ということだ。

アリストテレスはこの本の中で、「あらゆる劇の中で最高なのは悲劇だ! それも複雑なストーリーを持ったものでなければならない。つまりオイディプス王だ!」と声高に主張するのである。彼の好みに合わない劇はこき下ろされ、当時とても人気のあった「オデュセイア」も「あんなものは客のレベルが低いから流行ってるだけだ!」とまで言ってのける。想像するにこの先生、この後、かなりの数の劇作家たちを敵に回したのではないだろうか。

しかも、師匠にあたるプラトンは芸術否定論者(全ての芸術がというわけではない。彼が攻撃したのは悲劇や喜劇である。女々しい行動や強欲な人々を書くのは道徳上よろしくないから、という理由らしい)である。弟子であるアリストテレスが「芸術万歳!」という内容の本を出すのはかなり勇気がいったのではないだろうか。

話が脱線し、当初の予定より長くなってしまった。あまり長いコラムは私の好むところではないので、この話の続きはまた次回ということにして、今回はここらで筆をおきたいと思う。

次回は、アリストテレスの考えた芸術の要素について触れてみたい。

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2008年11月12日 (水)

藤井美菜とマガジンの小さな過ち ( アイドル愚考録 )

今回のコラムは、週刊少年マガジン49号の巻頭グラビア、藤井美菜を取り上げたい。

タイトルに「小さな過ち」と書いたが、勘違いされないよう予め言っておけば、このミスとはあくまでマガジン側のミスである。藤井美菜には何の責任もない。そのことを強調しておく。

ここで藤井美菜をご存じない方のために少し紙面を割く。

藤井美菜は今後の活躍が期待される若手女優であり、慶應義塾大学に通う現役大学生でもある。スマッシュヒットとなった映画『 シムソンズ 』で銀幕デビューを果たし、最近ではTBSの連続ドラマ『 BLOODY MONDAY 』の朝田あおい役を熱演している。

( これは余談だが、原作において朝田あおいの存在はかすんでいく一方であり、ドラマ版ではこの事態に対し、きちんとした救済措置が取られているのか心配でならない )

藤井美菜の魅力はその存在感にある。

圧倒的な華がある。というのではなく、何と言うか優しい空気感のようなものがあるのだ。

穏やかな春の陽射し。それも午後ではなく、午前中の極めて柔らかい光線である。

私は彼女を久々に出てきた癒し系の系譜として捉えている。

最近の人気アイドルたちは総じて元気が良く、自己主張の激しいアクティブなタイプが多かったと思われる。長く続く経済不況により、世に暗雲のように広がった憂鬱を忘れるためには、彼女らのような陽性のカンフル剤が必要とされたのであろう。よって長らく癒し系の出現はなかった。

( 長澤まさみをどの系譜に置くかは意見の分かれるところだが、私は彼女を癒し系として捉えることに躊躇いを感じる。長澤まさみについては、一度きちんとした考察が必要だろう )

しかし、どれほど美味な御馳走であっても何度も続けば飽きがくるもの。世間もパンチの効いた濃い味に食傷気味で、舌に優しい家庭の味わいが欲しくなる頃合だったのだろう。

ここに来て藤井美菜がじわじわと人気をのばしてきたのは、そういった事情があるからなのだ。

マガジン編集部でも勿論それは意識していて、今回のグラビアはいつもより大人しいかわりに、情感たっぷりの秋めいたグラビアに仕上げていた。水着のカットは一枚もなしである。

特に太陽の陽射しで彼女の頬にけぶる産毛を金色に輝かせたカットなどは特筆に価する。彼女のチャームポイントのひとつである、『 自然体 』を強く打ち出した、すばらしい演出であった。

それだけに惜しい。惜しすぎる。

マガジンは何故、彼女のことを「美少女」と呼んでしまったのか。

彼女は20歳である。それを少女と呼ぶのはまずかろう。

少年マガジンの中心層は、いかに漫画を読む層が広がっているとはいえ、やはり10代であろう。

10代の少年たちにとって彼女は少女ではなく、年上のお姉さんとなるはずだ。

そこをきちんと抑え、少年たちの憧れの存在として彼女を撮っていれば、もっといいグラビアになっていたと思われる。

( 個人的には彼女を図書館の中で見て見たい。司書役でもいいし、熱心にページをめくっている姿でも構わない。もし彼女が読んでいるのが、ハイデガーなどの哲学書だったりすると尚いい。憧れのお姉さんは、少年たちの手に届かない高尚な本を読んでいるべきなのだ )

少年マガジンはぜひとも近いうちに彼女を再登場させ、少年たちのマドンナとしての藤井美菜を撮影して欲しいものである。

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2008年10月13日 (月)

防人の女神。磯山さやか ( アイドル愚考録 )

世間に「萌え」なる言葉が浸透してはや幾年。今では自分の嗜好を相手に伝える時、「私は××萌えなんです」などと説明することが、一般人の間ですら珍しくない。

(「ポニーテール萌え」や「ナース萌え」などがそれである)

それまで使われていたフェチが駆逐されたわけではなく、個人の好み、語感などから使い分けられているらしい。

さて、これまで私は自分にこうした嗜好があるとは思っていなかった。どちらかと言えば大抵のものは好き嫌いなく美味しく頂ける、雑食タイプであると考えていた。

しかし、これからは違う。私は自分のなかに眠る、ある特殊な嗜好に気付いてしまった。

私は海上自衛隊東京音楽隊萌えである。

どうして、私がこんな特殊な嗜好に気付いてしまったかを説明するためには、まず一冊の雑誌について語らなければならない。

諸君らは、MAMAMORという雑誌をご存知か。

殆んどの人が知らないと思われるので、軽く説明しておこう。

MAMAMORとは扶桑社が発行する、日本の平和をどうやって守っていくかを考える月刊雑誌のことで、防衛省唯一のオフィシャルマガジンでもある。

自衛隊訓練の様子や、今後の国防をテーマにした座談会などの硬い記事から、自衛隊の携帯食料(近頃ブームのミリメシのこと)を某局の大食い番組で人気を博した大食いタレントが食べつくすという、かなりバラエティ色の強い記事まであり、読書を飽きさせまいとする編集者の意向なのか、なかなかどうして懐の深い内容ではある。

しかし、今回取り上げたいのは、別にこの雑誌の硬軟取り混ぜた内容のことではなく、MAMAMOR11月号の表紙と巻頭グラビアを飾った、磯山さやかという美の女神のことである。

それにしても、ああ、何という美しさであろうか。

海上自衛隊東京音楽隊の制服がこれほど似合う女性が他にいるであろうか。

否、彼女だけであろう。

真っ白な生地に金モールをあしらった、シンプルだが優美な制服。その下には清潔な純白のブラウス。黒いタイが全体の印象を引き締める、よいアクセントになっていることも見逃してはならない。そして、下は黒のロングスカートで白い上半身と見事なコントラストを描いている。

表紙の一枚こそ、あまりその魅力を生かしきれていなかったが、中に収められたグラビアは完璧な作品ばかりだ。

空撮写真なのか、屋上にたたずむ彼女を上から撮ったグラビアなどは、彼女の美しい黒髪がふわりと広がって、もう何と表現しても表現しきれない、言葉の無力さを思い知らされるほどの美しさであった。

フルートを吹いているグラビアもよかった。

彼女のふっくらとした、愛らしい頬のまるみとフルートのシャープなシルエットがあれほど合うとは思わなかった。

私はフルートに激しく嫉妬せざるを得なかった。

名優フランキー堺の代表作に「私は貝になりたい」があるが、私は彼女の吹くフルートになりたい。

ところで、音楽とはただ美しく、心を和ませるだけではなく、人の心を揺さぶり、高揚させ、熱狂へと追い込む力も備えている。

戦争と音楽とは実はとても相性がよい。勇壮な音楽が兵士たちを鼓舞し、死地へ送り出すのは、洋の東西を問わず、また過去から今に至るまで、戦場における日常的な光景であり続けている。

私は臆病ゆえの戦争反対論者だが、もしも彼女の音楽に送られるのであれば、米国へのリベンジに打って出るのもやぶさかでない。

そんな突拍子もないことを考えるぐらい、私は今回のグラビアにやられてしまった。

まだ見ていない人はぜひとも見て貰いたいものである。

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2008年9月25日 (木)

アキレスの踵。南明奈の膝。

うさぎ、うさぎ、何見て跳ねる。十五夜お月様見て跳ねる。

中秋の名月も過ぎた(ちなみに今年は9月14日であった)というのに、何故にこんなお月見の歌? 

などと怪訝に思った方も多いであろう。が、もちろんこの歌詞を抜き出したのには訳が有る。

それは14日の夜、私が十五夜の名月を眺めつつ、ぼんやりとこの歌を口ずさんでいた時だった。何となく晴れやかな気持ちでいた私の頭の中に、唐突にあるイメージが浮かんできたのだ。

それは月で餅を搗いているうさぎではなく、南明奈その人であった。より詳しく述べるならば、南明奈の膝であった。

ところで、人は『 南明奈のグラビア 』と言われ、どんなイメージを頭に浮かべるだろうか。

砂浜を元気に駆け回る彼女だろうか?

顔をくしゃくしゃにして笑う、彼女の無邪気な笑い顔だろうか?

しかし、もし私と感性が似ている人であれば、今、彼女の足は地上にないはずだ。

私が思い浮かべる『 南明奈のグラビア 』とは、思い切りジャンプした彼女が、ふわりと宙に浮かんでいるところだからである。

南明奈に限らず、そのグラビアアイドルに元気というイメージを刻みたい時、カメラマンは彼女らを宙へ飛ばすことによってこれを解決しようとする。

では何故ジャンプすることが元気さに繋がるのか。

それは大人とはあまりジャンプしないものだからである。

人は成長すると稀にしか飛び上がることをしなくなる。例外はスポーツや高い処にある物を取ろうとする時ぐらいであろう。他にも予想外のことが起きた驚きで、うひゃあと飛び上がる場面を昔の漫画でよく見たが、それは漫画特有の過剰な演出であり、現実の世界で見られることはまずないので除外する。

つまり、何かのためにやむを得ずするわけではなく、単にジャンプする快楽のために跳ね上がる行為は、子供たちの専売特許なのである。

ここまでくれば後は容易である。子供=元気という図式は、誰でも違和感なく受け止められる真理だからだ。

休日、仕事の疲れを引き摺りながらも家族を連れて観光地に出かけた父親が、はしゃぎまわる我が子を眺めて「子供は元気だな」と呟くように、子供というものはその小さな身体にとうてい納まりきらないエネルギーを蓄えているのである。

そして、その元気な子供を模倣することで、彼女たちは自らに元気というイメージを付与しているのである。

今現在もっとも元気さを売りとする南明奈は、おそらく歴代のグラビアアイドルの中でもそのジャンプ回数はかなり上位であるはずで、私が跳ねているうさぎから、南明奈のグラビアを連想したのも無理のないことなのである。

それにしても心配なのは彼女の膝である。

はじまりがあれば終わりがある。

写真の中の彼女は永遠に宙に浮いていられるが、現実の彼女はそうではない。

跳んだ回数だけ、着地しなくてはならないのだ。

そして、その衝撃をもろに受けるのは膝である。

砂浜ならば砂がショックを和らげてくれるから大丈夫、と考えるのは早計である。砂浜というのはあれで案外起伏があるものなのだ。ランダムに出来た大小の斜面の上で、毎回きちんとした着地を決めるのは、実はかなり難しい芸当なのである。

身体に感じない程度の軟着陸を繰り返す内、その歪みはしだいに大きくなっていき、ある日、突然に激しい痛みとなって彼女の膝を襲うのではないか。

近頃ではそんな想像が頭から離れず、彼女のグラビアを以前ほど純粋に楽しめなくなってしまった。

膝を抱え、悲鳴をあげる彼女など決して見たくない。

願わくばグラビアの神よ、南明奈と南明奈の膝を守りたまえ。

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2008年9月13日 (土)

石井香織と時計の針 ( アイドル愚考録 )

「時計の針を戻すことはできないが、前に進めることはできる」

そんな台詞を何かの小説で読んだことがある。

時間は不可逆である。過去に遡ることは神の御業であり、人の力ではかなわない。しかし、現在ある流れに介入し、その流れを人為的に早くすることは可能である。

確かそんな意味であり、その台詞を吐いた人物は人類の破滅を必然とし、その来るべき終焉を早める為あらゆる方策を尽くしていた。

そんなことを、ヤングアニマル嵐10月号で思い出した。

こう書けば、表紙と巻頭グラビアの、しほの諒のことかと勘ぐる人もいるかもしれないが、そうではない。

問題は巻中グラビアの石井香織である。

彼女はサンケイスポーツが作り出した新人アイドルユニット、ゆめ☆たまごの一員であり、知名度はモーニング娘。に負けるが同じぐらい出入りが激しい同ユニットにおける、唯一の初期メンバーである。

(現在はユニット自体が活動を休止しているが……)

10代とは思えぬ妖艶な色気で、じわじわとグラビアでの影響力を伸ばしている期待の新人だ。

今回のグラビアでも、そのねっとりとした熱い視線と厚い唇で、背筋のぞくりとするようなグラビアを披露している。

そんな中、とくによかったのが白地に赤い金魚の模様という、少し子供っぽい浴衣を下に敷き、その上に水着姿の彼女が横たわっているカットだ。

ごちゃごちゃとしたキッチュな浴衣をアイテムに使うことで、実年齢に近い、彼女のグラビアにしては珍しいぐらいの可愛さを演出できている。

それでいて、その上に転がる彼女はあられもない水着姿であるというのもいい。

結果、いろいろとこちらの妄想を駆り立てる、懐の深い一枚に仕上がっていた。

ところで、私はこのカットを見た時、ある暗澹とした想いに囚われた。

それは、今回のグラビアを見た先達たちはどう思ったのだろう、というものだ。

自分よりも年下の少女が、大人っぽい色気から少女本来の爽やかな色気まで演じわけているのである。

足元が揺らぐようで、心中穏やかではいられなかったのではないか。

自らを追い落とそうとする、新しい力がすぐそこまで迫っている。首にかかった死神の手を感じ、恐怖に顔を引きつらせたのではないか。

しかも、ここにある可愛さと色気のコンビネーションは、もう自分たちがどんなに望んでも得られない少女期特有のものなのである。

彼女たちの恐怖と苛立ちは如何ばかりか。

魔法の鏡に問いかけた女王は、白雪姫を知った時、どれほどの絶望を感じたか。

『 道を開けろ。お前の時間は終わった 』

今回の石井香織の巻中グラビアには、そんなメッセージが篭められているような気がしてならなかった。

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2008年8月25日 (月)

石原あつ美と石原ブルー ( アイドル愚考録 )

ピカソの青(プロシア青)。

北野たけしの北野ブルー。

これに石原あつ美の石原ブルーを加え、『 世界三大ブルー 』とすべきではないか。

ヤングマガジン38号の石原あつ美のグラビアには、そう思わせるだけの魅力があった。

先ずは駆け足で総評から。

最初から最後まで、石原あつ美という素材を活かしきった、素晴らしいグラビアであった。

敢えてラフに乱した、くしゃっとした髪が自由奔放で楽しい。茂みからひょっこりと顔を出した、愛らしい小動物のようだ。

彼女のチャームポイントである大きくて澄んだ瞳は、顔の表情の濃淡を意図的に薄めてみせることで「笑っている目」「怒っている目」という感情の従属物に堕ちることなく、独立した一個の芸術品となっている。

ヤングサンデーの休止にともない、ヤングマガジンによせる我々の期待は大きなものとなっている。そんな中、オール水着カットという実にヤングマガジンらしい骨太のグラビア構成は、これからも変わらずグラビアの王道を突き進むという、彼らの声明文に他ならない。

グラビア界の行く末に不安を感じていた我々の不安を打ち消す、何と力強い主張だろうか。

ひとまずは安心して良さそうである。

それでは本題である石原ブルーに移るとしよう。

石原ブルーが確認できるのは全グラビアの内わずか数枚のカットである。その数は極めて少ないが、他のカットを圧倒する比類なき光を放ち、我々の目を惹きつける強い引力を備えている。

撮影場所は浴室である。ホテルなのか、すこし狭くて息の詰まるような緊迫した雰囲気がある。

そこに、彼女が立っている。

シャワーの雨に打たれながら、こちらをじっと見ている。濡れてボリュームのなくなった髪が、頬や首筋に張り付いて凄絶なエロスを醸成している。

そして、画面全体を支配する、淡く、透き通るようなブルー。

これが石原ブルーである。

その色はペルーとボリビアに跨る古代湖、チチカカ湖の色合いに近い。風一つない、完全に凪いだ状態のチチカカ湖を思い浮かべてもらいたい。あの青は確かに石原ブルーである。

その青が、現実とも幻ともつかない空間を作り出し、石原あつ美というグラビアアイドルから名前を奪い取り、まるで正体の知れない、極言すれば生きているのか死んでいるのかすら分からない、謎の女に変えてしまっているのだ。

こう書けば、すべては撮影スタッフの演出の力によるもの、と勘違いされそうだが、それは大きな間違いであると断じておく。

あのブルーにもっとも相応しいキャンパスは、石原あつ美の肌以外にありえないからだ。

色の白さで言えば、谷桃子も愛衣もよい色を持っているが、彼女らの白は底に温もりが透けて見えてしまう。石原あつ美のクリアーな白だけが、今回の求めに応じられる唯一の色なのである。

ここで種を明かしてしまえば、この色は浴室に張られたタイルの青である。それがシャワーの水と混じりあい、溶け合い、淡いブルーとなって画面を覆っているだけだ。言葉にしてしまえば大したことのない、奇術やペテンのたぐいとも言えよう。

しかし、もっとも簡単なトリックで大衆の目を欺くこと、それが奇術の最終到達点である。

寧ろ、これだけの手札で、石原ブルーという奇跡を成し遂げてみせた、スタッフおよび石原あつ美の卓抜したその手腕を賞賛すべきではないだろうか。

今回、私は彼らの偉業を讃えると同時に、これだけのスタッフを擁するヤングマガジン編集部の能力の高さを示すことで、私同様ヤングサンデー喪失のショックに揺れた人心を癒したいと考えた。

それが僅かなりとも叶ったのならば、これに優る喜びはないのだが。

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2008年8月 7日 (木)

千代谷美穂のガールズバイカー ( アイドル愚考録 )

千代谷美穂。

我々はその名前を覚えておく必要があるだろう。

なぜならば、彼女はガールズバイカーの第5号において、あのフランス救国の英雄、ジャンヌ・ダルクでさえ成し遂げなかった奇跡を起こしているからである。

いきなり歴史上の偉人の名前が飛び出したことに戸惑いを覚えた方は多いだろう。しかし、これは単なるハッタリなどではない。何となれば、私は両者の間にある共通点を見出しているのだから。

両者の共通点とは、共に自己主張する強い女性であるということだ。

改めて説明するまでもないが、ジャンヌ・ダルクは神の啓示を受け、さまざまな苦難に見舞われつつも、兵士たちを率いてフランスを救った、英雄の中の英雄である。女性の活躍が厳しかったあの時代に、プライドの高い男たちを統率し、一騎当千の軍団を作り上げた彼女の最大の武器は、どんな抵抗を受けながらも最後まで自らの信念を貫き通した、その鉄の意志である。

まさか、彼女が自己主張する強い女性であることを認めない人はいないだろう。

一方、千代谷美穂はどうか。

彼女は歴史上の人物などではない。過去の人ではなく、現在に生きるアイドルである。ゆえにその性格、行動の全てを知ることはできない。しかし、そんなものは必要ではないのだ。必要なのは、ガールズバイカーの第5号の表紙、そこに写し出された千代谷美穂の立ち姿だけである。

街中である。どこかは分からない。道端に一台のバイクが停まっている。赤と黒のシンプルなカラーリングの、カワサキ製のバイクである。そして、そのすぐ横に持ち主であるらしい女性、千代谷美穂が立っている。彼女はパーカーのポケットに両手をねじ込み、ややアゴを突き出すようにし、こちらを値踏みするような、また見下すような視線を飛ばしている。

不遜な態度である。こちらに媚びることなく、鑑賞者に対して同等、もしくはそれ以上の場所に立とうとする、彼女の強い意思がそこから放射されている。

ここで忘れてはいけないのが、彼女の傍らに停められているのがバイクであるということだ。これは重要な要素である。これが自動車であったならば、この表紙の価値は雪崩をうって下落する。彼女のとなりにあるのは、あくまでバイクでなければならない。

私は、バイクは自己実現のためのアイテムだと考えている。単なる移動手段とするならば、自動車の方が何かと便利であろう。雨天時の走行性。乗車人数。積載能力。安全性。これらの能力において、バイクは自動車に大きく水をあけられている。にも関わらず、バイクを選択するというのは、そこに何かの強い拘り、すなわち自己主張を感じずにはいられない。

彼らはそれらの利便性よりも、カッコよさを選んだのだ。

合理的な判断よりも、自らの信念、美学に殉ずることを選んだのだ。

そして、それが女性であるならば、その意識は男性のそれよりも強いと言わざるを得ない。

一般的に女性は我が身を守る意識が男性よりも強い。それは我が子を守り、育てるために女性に備わった本能的な衝動であるらしい。にも関わらず、彼女たちは自らのスタイルを優先させたのだ。危険を避け、安全を求めよという、人類という種からの根源的な命令を退けてまで。

彼女自身の態度。そして傍らに停められたバイク。その二点から、私は彼女を自己主張する強い女として認定し、千代谷美穂とジャンヌ・ダルクを結びつけるというアイディアの根拠としている。

これを単なる私の思いつき、妄言の類として一笑に付す者がいるだろうことは容易に想像がつく。私自身がそうだからである。しかし、それでも私は千代谷美穂の姿に、オルレアンの聖なる乙女、ジャンヌ・ダルクの姿を幻視せずにいられない。

彼女がカワサキのバイクで戦場を駆る姿が脳裏から離れない。彼女の後ろに付き従う騎士団の喊声。彼らの騎乗する軍馬の蹄が、雷鳴のような轟音を立てる。それは、幻とするにはあまりにも魅力的すぎた。

しかし、忘れてはいけないことがある。それは彼女の終焉のカタチだ。彼女が魔女として火刑に処されたことを抜きにして、彼女の伝説を語り終えることは不可能である。

彼女の死は、ある悲しい事実を示唆している。

男という生き物は、自己主張の強い女性を尊敬、崇拝する一方で、実は敬遠し遠ざけようとする強い衝動を持っているだ。彼女の悲劇的な顛末は、彼女自身の潔白で強過ぎた精神が生んだ必然的帰結であったと私は考える。

これをマシズム、男の身勝手と非難して除外することは簡単だが、グラビアを見る悦びが男の本能的で単純な欲望に根ざしている以上、グラビアを語るうえで決して外すことのできない重要な因子である。

男は自己主張の強い女を好まない。

これは恐らく今後も変わることのない事実である。すると、千代谷美穂もジャンヌ・ダルク同様、悲しい最後を遂げる運命なのであろうか。

私は確信を持って、その問いに『 否 』と答えよう。

彼女の向かう先にあるのは処刑台ではなく、栄光という二文字である。

冒頭で書いた、ジャンヌ・ダルクですら成し遂げなかった奇跡。それは、自己主張する強い女性でありながら男性の反発を招かないこと、である。

この容易ならざる難題を、千代谷美穂はあっさりと解いてしまった。それも最小の手数で。

彼女は大したことはしていない。彼女のしたことと言えば、ただ唇の両端を上へ僅かに持ち上げただけである。しかし、その僅かな表情筋の動きが彼女を火刑台から救い出したのだ。

彼女は笑っていたのである。

こちらを見下すような怖い目をしながら、すぐ下の唇では笑みを作っていたのである。

途端に世界は様相を変える。強張ったモノクロの世界に鮮やかな色彩が宿る。

それまでの強気で挑戦的な振る舞いは単なるポーズだったのだ。そしてポーズを作ると言うことは、それを見せたい相手がいるということだ。つまり彼女は強がって見せていただけなのだ。

それを根拠づけるのが彼女の笑みのカタチである。それは冷笑、嘲笑などというものではなく、隠そうとして隠し切れなかった笑みである。自分の馬鹿げた振る舞いを自覚し、思わず漏れてしまった照れ笑いなのだ。

自己完結した世界に住むジャンヌ。己の信念を失わず、大勢の仲間に囲まれながら誰も寄せ付けなかった孤高の人。その生涯は立派ではあったが、あまりに立派過ぎて近寄れない。仰ぎ見ることはできても、同じ高さで目線を合わせることはできない。

しかし千代谷美穂はこちらと目を合わせ、私たちの声を待っている。一見、拒絶するようなポーズを取っているが、実際にはこちらとのコミュニケーションを欲している。開かれている。

彼女は、夢のように美しいが我々と無限の距離を隔てた夜空の星ではなく、美しさでは遠く及ばないが、人類を暗闇の恐怖から救い出し、真冬の寒さから守ってくれる地上の火であることを選んだのだ。

そんな彼女をどうして愛さずにおれようか。

我々は胸に刻まなければならない。千代谷美穂という地上の火を。

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2008年7月28日 (月)

月と太陽と原幹恵 (アイドル愚考録)

「近頃、よく原幹恵を見るな」

最初はそんな漠然とした考えだった。しかし、何となく気にかかり、それから彼女のグラビアを無意識に探すようになった。するとやはり彼女を見る回数が増えていた。

彼女のグラビアが増えた理由とは何か。

その理由を探るべく、彼女のグラビアを見つけるとゆっくり時間をかけて眺めるようになった。その結果、私は疑問への答えを得たが、しかし先ずはそれの過程で発見した、あるひとつの考えを先にお話したい。それは答えとも密接に絡んでおり、ここを抑えておくことが後の理解に繋がると信じるからである。

その考えとは、

『 原幹恵は月である 』

ということだ。

この私の主張に、大半の読者は驚かれることであろう。

原幹恵の魅力とはその力強さ、逞しさすら感じさせる健康的な肉体美であり、夜を優しく照らす月の持つイメージとは大きく異なっているからだ。

しかし、月の光が一体何によるものなのかを考えれば、この不審もたちどころに消えてしまうに違いない。

月の光とは、すなわち太陽の光である。

はるか昔より人々に愛され、今尚あまたの詩人たちの賛美の対象であり続ける月は、その美しさを太陽という強大な庇護者から与えられているのだ。これまでの賞賛や熱狂ぶりを考えると、月ほど巧みに太陽の恩恵を使いこなしているものは他にあるまい。

そして、地上における月の代行者と呼ぶべき存在が、原幹恵である。

私の知る限り、夏の陽射しを生かすことにかけて原幹恵を越えるグラビアアイドルはいない。

肌を焦がしそうな夏の熱い陽射しも、彼女の肌はしっかりと受け止め、見事な生命の輝きを放つのだ。

これは余談だが、先週号のヤングジャンプの谷桃子のグラビアは、この太陽の強すぎるライティングに振り回されていた。表紙とラストの室内撮影のカットは良かったのだが、間に挟まれていた浜辺でのカットは悲惨であった。強い陽射しが容赦なく彼女の白い肌を痛めつけ、その余りの痛々しさに私は注視することができなかった。

一見、正反対のように思える月と原幹恵だが、実は共に太陽という心強い味方で繋がっていたのである。

これでようやく最初の疑問に対する答えを示す用意ができた。

彼女のグラビアが増えた理由とは、今の季節が夏だからに他ならない。

陽射しの強くなる夏こそが、原幹恵のもっとも輝く時期であるのだ。

今後ますます陽射しは熱く、強くなる。

夏はこれからが本番である。

原幹恵の勢いは当分止まりそうにない。

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2008年7月21日 (月)

田中れいなと高橋愛。あるいは電脳世界のアリスたち (アイドル愚考録 )

皆さんはMacファンという月刊誌をご存知だろうか?

「iphone」を生み出したアップル社の主力商品、パーソナルコンピュータMac。そのMacを中心に、あらゆるMacユーザーのための情報を取り扱っているのがこのMacファンである。

が、私にとって雑誌の内容はどうでもよい。私はパソコンにほぼ関心がない。メール機能すらほとんど使わぬ私にとって、iphonなど無用の長物でしかない。

そんな私がMacファン8月号を手に取った訳はただひとつ、表紙のグラビアにある。

「モーニング娘。」の田中れいなと高橋愛の表紙が抜群に良かったのだ。

以前、専門誌(アウトドアやオートバイなど)のグラビアは、その雑誌の扱う内容によってさまざまな制約を受け、そのためにグラビア誌や大衆誌のそれとは違う出来栄えになる、と論じたことがあったが(アイドル愚考録の4:参照)今回はその制約と彼女らの特性がうまく噛み合い、すばらしいケミストリーを生み出している。

パソコン誌のグラビアに要求されるのは、コンピュータ技術と人間の幸福な共生関係を描くことである。小型化された電子機器を持ち、にっこり微笑む知的美女。このような表紙を見たことのある人は多いだろう。もはやテンプレートと化した、典型的パソコン誌の構図である。

しかし、今回のMacファンの表紙は違った。

そこにあるのはコンピュータという機械(ハード)そのものではなく、コンピュータの持つ未来的なイメージだ。

田中れいなと高橋愛がいるのは、白い無機質な素材で作られた、とても大きな箱が規則的に並べられた不思議な世界である。清潔だが、生命の感じられない寂しい空間だ。我々がコンピュータに抱く、漠然とした不安が包み隠さず現れている。

昔のSF小説には、人工知能が人間の愚かさに愛想を尽かして叛旗を翻す、といった筋書きのものが多かった。最近ではあまり流行らなくなったようだが、コンピュータという表情の見えない存在に対し、我々はやはり潜在的に畏れのようなものを感じているのだろう。

しかし、コンピュータの販促、普及を目的とするパソコン誌の表紙がこれだけで終わる筈がない。そこはきちんと我々の不安を解消してくれる。人間とコンピュータとの幸福な未来を提示している。

それは田中れいなと高橋愛の表情である。

一見、白い無機質なこの空間に捕らえられたように見える彼女らだが、その表情にまるで不安の色がないのだ。微笑むでも悲しむでもないそのニュートラルな表情は、ここが自分たちのあたりまえの日常であると主張しているようだ。

広漠とした空間に違和感なく溶け込むふたりは、まるでコンピュータの妖精のようだ。不思議の国ならぬ、電脳世界のアリスたちである。

背景の同じ白だけでコーディネイトされた衣装が、彼女らとその空間の一体化を生み出しているのは間違いないが、彼女らの地力の高さも忘れてはならない。

今回のグラビアには、抑えた表情が欠かせない。生物であることが強く現れすぎると、画面との一体感を剥ぎとってしまう。が、消してしまえば我々の感情移入を阻害する。人間でも人形でもだめなのだ。その曖昧な領域で生きる存在が必要とされるである。

難しい注文だが、さすがは「モーニング娘。」のふたりである。年齢に見合わぬ、数々の場数を踏んでいるだけのことはある。見事にこの難題に答えてみせた。

機械(ハード)そのものを写すことなく、コンピュータ技術と人間の共生関係をつよく訴える、すばらしい一枚である。

ひとつ残念なのは、彼女らの手が離れていたことだ。これで彼女らがお互いの手をつないでいれば、もう一段物語性が強まり、そこはかとなくエロスの漂う、深みのある作品になっていたはずだ。よい写真であっただけに勿体なく思う。

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