●コラム

2010年9月28日 (火)

映画レビュー 「絞死刑」

 ラピュタ阿佐ヶ谷の佐藤慶特集で大島渚監督の 『 絞死刑 』 を見てきました。

※ 内容に関しては、上にあるアマゾンのリンクか、ウィキペディア( 『 絞死刑 』 )をご参照ください。

 とても面白かったです。

 僕はこの作品を「死刑制度をテーマにした作品」というより、「死刑制度を題材にして、日常と非日常というテーマについて描いた作品」ではないだろうかと思いました。

 日常とか非日常なんていってもわかりにくいと思いますが、日常というのは普段見えている面のことで、非日常というのは普段見えていない面のこと、という感じに考えてください。

 人間が普通に生活している分には、非日常の面というのはなかなか見えません。

それが見える一番端的な例が戦争です。

 戦争状態に置かれると人は、平時とは違った振る舞いをします。

 その振る舞いはときに平時では考えられないような残虐な行為であったりするわけですが、そういう残虐な行為をした人が平時でも乱暴者だったりするかというと決してそうではないのです。

 確か、遠藤周作の小説で、近所のおっちゃんが戦争で人を殺した話を銭湯で自慢げに話すというエピソードがあったと思うのですが、このおっちゃんが残虐性の高い話をこともなげに話せるのは、それが日常と切り離された非日常のことであるからです。

 つまり日常と非日常は完全に別個のものなんですね。

 映画の中でも佐藤慶演じる所長が酒席で戦場において行われた処刑に加わった話をしますが、所長はその後罪に問われることなく公務員として普通に生活できていますし、周囲の人間も彼をその事実をもって残虐な人間だと見ているわけでもないので、やっぱりここでも日常と非日常とは分けて考えられているわけです。

 言い換えれば、社会がそういうふうに認知してくれているわけです。

 ただ、戦争が終わってしまうと、今まで国が用意してくれていた戦場という、非日常を体験する場がなくなってしまいます。

 しかし、場がなくなっても、人間というのは必ず非日常的部分を心に持っています。

 人によっては、それを小説や映画のようなフィクションの世界に浸ることで発散したりすることもできるわけですが、中にはそういう代替手段を持たない人もいます。

 さあ困った。

 こうなると日常の中で非日常的行為に出るしかありません。

 映画の中でRのモノローグにおいて「日常と非日常がからみ合って云々」というような感じのセリフがあったと思うんですが、これはおそらくそういうことだと思います。

 日常と非日常。

 そこが日常か非日常かは、結局は当人の認識の問題なので、当人は非日常だと思って行ったことが、日常の法によって裁かれてしまう。

 しかもその結果執行される刑が死刑、すなわち殺人という非日常的行為であるという皮肉。

 さらにいうなら、その死刑を実際に行うのは、一部の特権階級やエリートのような特殊な人間ではなく、日常において僕らの周りに普通に存在している公務員(刑務官)であり、彼らは非日常的行為である殺人を、日常である仕事の一環として行うわけです。

 これが日常と非日常の絡まりです。

 で、それは映画の展開自体にも色濃く出ております。

 後半あたりからシュールな部分と現実的なやりとりがゴチャ混ぜになってくるという展開になるのは、これまでのところで僕が書いてきたようなことを映画表現として満を持して前面にだした結果なのではないかというふうに思うのです。

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2010年2月26日 (金)

映画レビュー 『 謎のストレンジャー 』

『 謎のストレンジャー 』(原題 The Stranger)
  監督・出演 オーソン・ウェルズ
  出演 エドワード・G・ロビンソン
      ビリー・ハウス
      ロレッタ・ヤング
      フィリップ・メリヴェイル ほか

 渋谷の シネマヴェーラ でオーソン・ウェルズの 『 謎のストレンジャー 』 を見てきました。

 オーソン・ウェルズ関連では、これまで『市民ケーン』(監督・出演)や『第三の男』(出演)を見たことがありますが、どちらも随分前のことであまりよく覚えていません。

 そういうわけであまり期待せずに見に行ったのですが、これが大正解でした。

 映画の素晴らしさが詰まった一作です。

 この作品でオーソン・ウェルズが演じているのはナチスの残党・キンドラ。

 戦犯聴聞会はユダヤ人収容所の所長だったマイネックを泳がせ、キンドラの行方を突き止めようとします。

 物語はキンドラと彼の正体を暴こうとする戦犯聴聞会の調査員の心理戦を中心に描かれています。

 ただ、ストーリーそのものには特に目新しいところはなく、びっくりするようなどんでん返しもありません。

 ではどこが特筆に価するのかというと、ひとつは“強固な構成”、もうひとつはまさに“映画ならではのこと”です。

 “強固な構成”(プロット)は、いざシナリオ執筆となった際、シナリオライターに自由を与えてくれます。

 シーン毎の必要な要素が明確になっていれば登場人物の微妙な心の動きやセリフに集中できますし、ときには思い切った路線変更すら可能になります。

 映画の中で、夜、別名で名門校の高校教師に成りすましたキンドラが昼間に殺した男の死体を埋めた場所を犬の散歩にかこつけて確認に行く場面があるのですが、それと、宿で寝ようとしていた聴聞会の調査員が高校教師の昼間の発言から彼がキンドラに違いないと気づく場面が、カットバックで相互に描かれます。

 そしてその後、帰宅した高校教師は、昼間の品のある穏やかな態度とは打って変わり、犬(死体を埋めた場所を掘ろうとした)をしつけと称して地下室に閉じ込めます。

 この一連の流れから、その後徐々に正体をあらわにしていく高校教師の印象の変化を描くのは、全体を通した構成なくしては不可能なのです。

 もうひとつのポイント“映画ならではのこと”というのは、シーンとシーンの化学反応から生まれてくる、物語のふくらみのことです。

 これは観客の想像力を喚起させるスイッチのようなものと言い換えてもいいかもしれません。

 映画は映像で表現するもの、というのはよく言われることですが、映画はシーンです。

 ひとつひとつのシーンと、それらシーンのつながりから、描かれていない部分を観客に想起させ、わずか100分程度でひとつの世界を伝える。

 個々のシーンとその連携からくる化学反応が効果的に作用しているかどうかが一番重要なのであって、それができていれば極端な話、テーマや思想はあってもなくてもいいのです。

 この作品はそういった“映画とはそもそも何なのか”を思い出させてくれる良作です。

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2010年2月24日 (水)

映画レビュー 『 狼の死刑宣告 』

『 狼の死刑宣告 』(米国公開2007年 日本公開2009年)
  監督 ジェームズ・ワン
  脚本 イーアン・マッケンジー・ジェファーズ
  出演 ケヴィン・ベーコン 他



 新橋文化劇場で見た 『 狼の死刑宣告 』 の感想です。

 あらすじは以下のような感じです。

 主人公ニックは投資会社の副社長で、妻と息子2人と幸せに暮らしている。

 ある日、たまたま立ち寄ったガソリンスタンドで長男のブレンダンがギャングに殺されてしまう。

 それもニックの目の前で。

 犯人はすぐ捕まるが、検事によると刑は数年程度の懲役刑にしかならないとのこと。

 終身刑を望んでいたニックはそれに納得できず、わざと犯人が釈放になるような証言をし、自らの手で息子の復讐を遂げようとするが……。

 『 バタフライエフェクト3 』 の感想にも同じことを書きましたが、映画というのはテレビドラマよりも観客が集中して見ているので、提示する情報量をテレビより少なめにしないと、わかりやすくなりすぎてつまらなくなってしまいます。

 といって少なすぎても観客を置き去りにしてしまうので、ちょっと考えないとわからない程度の空白を作りつつシーンをつないでいくのが良い映画の条件です。

 その点においてはこの映画は大変優れた作品であるといえます。

 次のシーンに移った瞬間、観客が「これは何だ?」と疑問を持ち、少し考えて「ああ、こういうことか」とひざを打つ。

 手を変え品を変え、これを繰り返すことで観客は自分の身の回りのことを忘れ、スクリーンに没頭することができます。

 脚本、演出、編集それぞれが良い仕事をしたということです。

 対して役者はどうかというと、やはり主演のケヴィン・ベーコンに尽きます。

 ケヴィン・ベーコン演じるニックは息子の復讐のために独り、ギャングに立ち向かうわけですが、彼は警官でも軍人でもなく、サラリーマンです。

 当然、銃の扱いは素人。

 肉体的にも特別強いわけではないので、ショットガンをぶっ放した後によろけたりします。

 これがまたいい。

 まるで子供の運動会で足が付いていかずに徒競走で転んでいるお父さんみたい。

 思わずがんばれと応援したくなります。

 しかも、自らの命を顧みず復讐に血道を上げているニックの職業が、「投資コンサルタント = 顧客が投資を行う際のリスク管理が主な業務」であるわけですから、二重に面白い。

 そういう普段スーツ姿で仕事をしている普通のお父さんが、復讐のために恐ろしいギャングたちを皆殺しにするわけです。

 ストーリーはいたって単純なわかりやすいもので、アクションは実に爽快!

 映像も 『 ソウ 』 のジェームズ・ワン演出だけあって素晴らしい出来です。

 2009年公開のアクション映画としては 『 チョコレートファイター 』 と双璧をなす傑作であるといえます。

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2010年2月21日 (日)

映画レビュー 『 バタフライエフェクト3 』

 新橋文化劇場で 『 バタフライエフェクト3 』 と 『 狼の死刑宣告 』 を見てきました。

 『バタフライエフェクト』シリーズは、1作目はDVDを購入して鑑賞、2作目は評判がすこぶる悪かったので見ていません。

 このシリーズは、過去にタイムスリップする能力を持った男が主人公で、彼が皆を幸せにするために過去を弄ることで、その行動が逆に未来の大きな不幸を呼んでしまう、というのが基本のストーリーです。

 シリーズ間にストーリーや登場人物のつながりはありません。(2作目は見てませんけどたぶんつながりはないと思います)

 主人公の能力設定だけが共通です。

 過去と現在の行き来を繰り返す展開が主で、過去のちょっとした行動が伏線になって現在がとんでもないことになっていたりするのが面白いところ。

 必然的にかなりテクニカルな脚本になるのですが、1作目はそれが非常によく練られていて非常に楽しめました。

 今回見た3作目も同様で、現在に戻ってみると同居人との立場が逆転していたり、刑務所に収監されていた人が弁護士になっていたりと期待通りの展開がてんこ盛りです。

 主人公が過去から現在に戻った瞬間は、彼と同じように観客も現在の状況がどのように変化しているのかわからず一瞬戸惑うのですが、映画の場合はテレビドラマと比べて観客の集中の度合いが高いですから、テレビだと「なにこれ、わかんねえよ」と思われてしまう情報量でも、観客は「いまどうなってるの!?」と積極的に理解しようとします。

 その際、観客に提示する情報の量が、推測すればル程度わかる程度の量であると、観客はある種の達成感を感じ、それによって余計に画面に集中してくれます。

 その辺のさじ加減がこのシリーズの脚本は絶妙です。

 とはいえ、作品自体はいわゆるB級作品であって、決して粗がないわけではないのですが、少ない予算でも工夫された脚本によってこれだけ観客を楽しませることができるという点においては、なかなかの作品であるといえるのではないでしょうか。

 一番面白いのは1作目なので、興味を持った方は是非見てみてください。

 特にラストは抑制が効いていて、せつなくて、かっこいいですよ。

 『 狼の死刑宣告 』の感想は次回に。

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2009年1月 7日 (水)

アリストテレスの詩学について(二回目)

前回の予告に書いたとおり、今回は筋(ストーリー)について書いてみようと思う。

プロ、アマを問わず物語を作る人間であれば、始めから終わりまで整合性のある筋(ストーリー)を作り出すことの難しさを知っているだろう。破綻をきたしてないか。ご都合主義におちてないか。目を皿のようにして原稿を眺め、一枚書いては破り捨て、一枚書いては破り捨て、を繰り返して結局は一日を棒に振る。脳ミソはどっぷりと疲れたが目の前の原稿は真っ白いまま。ぐったりと重い身体を引き摺って布団にもぐりこむ。明日こそは続きを書こうと誓うが、心の奥では明日なんか来なければよいのに、と呟いている。

そんな創作活動の苦しみが多少は軽減されるかもしれない、ストーリーを作る上でのヒントとなるような、幾つかのポイントをアリストテレスの詩学から紹介したい。

ただし前回も書いたが、この本は大昔に書かれたものであるため、作中に例としてあげられている戯曲が現代人にとって馴染みの薄いものばかりである。モデルとしては適切でない。

そこでこれを大幅に変え、日本人ならば誰しも知っている「桃太郎」をモデルとして扱うことにした。これで多少は分かりやすくなると思う。

単一と複合のストーリー

アリストテレスは、ストーリーには単一と複合の2種類があると書いている。単一のストーリーとは文字通り、ひとつの目的に向かって突き進む主人公の成功、もしくは失敗について書かれたもので、複合のストーリーとは後述する発見と急転を持ち、それらによって主人公の運命が移り変わっていくものを示している。

正直、よく分からない説明になってしまったので、上述したように「桃太郎」で説明したい。

単一のストーリーとは、「桃太郎」の筋そのものである。桃から生まれた桃太郎が犬、猿、雉の三匹の部下を引きつれ鬼ガ島へ渡り、見事に鬼を討ち果たす。この単純にして明快なストーリーラインが単一のストーリーである。

単一という呼び方からすると、複合に比べて一段も二段も劣るような印象を受けるが、分かりやすく力強いストーリーラインであるため、書きたい題材や媒体(少年漫画や児童小説)によっては複合を上回る効果を得られるだろう。

なお、ドラゴンクエストに代表される、初期のRPGゲームはほとんどが単一のストーリーだったと言える。

十分な説明とは言い難いが、これはアリストテレスが単一のストーリーについてほとんど説明していないことが原因である。前回にもすこし書いたが、どうも先生は好き嫌いのはっきりした御仁らしく、また嫌いなものに対しては徹底的に無視を決め込む性質らしい。

次に複合のストーリーだが、これは従来の「桃太郎」にある改良を加えて考えると実に分かりやすい。改良するのは鬼の属性である。本来倒すべき敵という属性しか持たない鬼に、父親という属性を新たに付け加えるのである。

すると、どうなるだろう。

正義の志に燃えた桃太郎は三匹の家来を引き連れて鬼ガ島へ乗り込む。悪逆の限りを尽くす鬼たちを苦難の末に退治し、達成した己の偉業に酔っていたその時、桃太郎は発見するのだ。今まさに打ち倒した鬼の大将こそが、自分の実の父親であるという証拠を。

その瞬間、桃太郎は稀代の英雄から肉親殺しの大罪人へ転落する。

無邪気な正義のヒーロー、桃太郎の苦悩の日々がこれから始まるのである。

察しのよい読者であれば、この展開が多くの作品の中ですでに使われていることにもう気付いていることだろう。

魔王「フハハハ、お前にワシは倒せん」

勇者「なぜだ!」

魔王「ワシがお前の父親だからだ」

勇者「な、なんだって!」

魔王「強くなったな、我が息子よ」

このように、倒すべき敵がじつは父親、という展開は一昔前の少年漫画の王道パターンであった。目の肥えた読者の増えた現代では、流石にこれをそのまま持ち込むことはできないが、手を変え、品を変えれば今でも十分に活用できる、便利なパターンのひとつではあると思われる。

閑話休題。恐らく複合のストーリーとは、自分を発見するストーリーなのだろう。桃太郎は自分が桃からではなく、鬼から生まれたという出生の秘密を知り、本当の自分を発見する。詩学のなかで絶賛されるオイディプス王も、自分が父親を殺し、母親を犯した大罪人である自分を発見する。

近代文学の大半が内的自己の喪失と発見をモチーフとしていることを考えれば、自分を発見する複合のストーリーを学ぶことは現代においても役立つかもしれない。

ちなみに鬼が桃太郎の父親であるというバージョンの「桃太郎」は私の創作ではない。出自は忘れたが、どこかの地方に伝わっていた御伽噺だったと記憶している。

さて、当初の予定ではこのまま、アリストテレスがストーリーを作る上で、必ず含めなければならないとした三つの要素、発見、急転、苦痛についても書くつもりだったのだが、予想していたよりも分量が多くなってしまった。

はなはだ中途半端ではあるのだが、この辺りで一度、休憩をはさみたいと思う。

それでは、ここまで読んで下さった読者の皆さん、お疲れさまでした。また次回、お会いしましょう。

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2008年11月12日 (水)

藤井美菜とマガジンの小さな過ち ( アイドル愚考録 )

今回のコラムは、週刊少年マガジン49号の巻頭グラビア、藤井美菜を取り上げたい。

タイトルに「小さな過ち」と書いたが、勘違いされないよう予め言っておけば、このミスとはあくまでマガジン側のミスである。藤井美菜には何の責任もない。そのことを強調しておく。

ここで藤井美菜をご存じない方のために少し紙面を割く。

藤井美菜は今後の活躍が期待される若手女優であり、慶應義塾大学に通う現役大学生でもある。スマッシュヒットとなった映画『 シムソンズ 』で銀幕デビューを果たし、最近ではTBSの連続ドラマ『 BLOODY MONDAY 』の朝田あおい役を熱演している。

( これは余談だが、原作において朝田あおいの存在はかすんでいく一方であり、ドラマ版ではこの事態に対し、きちんとした救済措置が取られているのか心配でならない )

藤井美菜の魅力はその存在感にある。

圧倒的な華がある。というのではなく、何と言うか優しい空気感のようなものがあるのだ。

穏やかな春の陽射し。それも午後ではなく、午前中の極めて柔らかい光線である。

私は彼女を久々に出てきた癒し系の系譜として捉えている。

最近の人気アイドルたちは総じて元気が良く、自己主張の激しいアクティブなタイプが多かったと思われる。長く続く経済不況により、世に暗雲のように広がった憂鬱を忘れるためには、彼女らのような陽性のカンフル剤が必要とされたのであろう。よって長らく癒し系の出現はなかった。

( 長澤まさみをどの系譜に置くかは意見の分かれるところだが、私は彼女を癒し系として捉えることに躊躇いを感じる。長澤まさみについては、一度きちんとした考察が必要だろう )

しかし、どれほど美味な御馳走であっても何度も続けば飽きがくるもの。世間もパンチの効いた濃い味に食傷気味で、舌に優しい家庭の味わいが欲しくなる頃合だったのだろう。

ここに来て藤井美菜がじわじわと人気をのばしてきたのは、そういった事情があるからなのだ。

マガジン編集部でも勿論それは意識していて、今回のグラビアはいつもより大人しいかわりに、情感たっぷりの秋めいたグラビアに仕上げていた。水着のカットは一枚もなしである。

特に太陽の陽射しで彼女の頬にけぶる産毛を金色に輝かせたカットなどは特筆に価する。彼女のチャームポイントのひとつである、『 自然体 』を強く打ち出した、すばらしい演出であった。

それだけに惜しい。惜しすぎる。

マガジンは何故、彼女のことを「美少女」と呼んでしまったのか。

彼女は20歳である。それを少女と呼ぶのはまずかろう。

少年マガジンの中心層は、いかに漫画を読む層が広がっているとはいえ、やはり10代であろう。

10代の少年たちにとって彼女は少女ではなく、年上のお姉さんとなるはずだ。

そこをきちんと抑え、少年たちの憧れの存在として彼女を撮っていれば、もっといいグラビアになっていたと思われる。

( 個人的には彼女を図書館の中で見て見たい。司書役でもいいし、熱心にページをめくっている姿でも構わない。もし彼女が読んでいるのが、ハイデガーなどの哲学書だったりすると尚いい。憧れのお姉さんは、少年たちの手に届かない高尚な本を読んでいるべきなのだ )

少年マガジンはぜひとも近いうちに彼女を再登場させ、少年たちのマドンナとしての藤井美菜を撮影して欲しいものである。

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2008年10月13日 (月)

防人の女神。磯山さやか ( アイドル愚考録 )

世間に「萌え」なる言葉が浸透してはや幾年。今では自分の嗜好を相手に伝える時、「私は××萌えなんです」などと説明することが、一般人の間ですら珍しくない。

(「ポニーテール萌え」や「ナース萌え」などがそれである)

それまで使われていたフェチが駆逐されたわけではなく、個人の好み、語感などから使い分けられているらしい。

さて、これまで私は自分にこうした嗜好があるとは思っていなかった。どちらかと言えば大抵のものは好き嫌いなく美味しく頂ける、雑食タイプであると考えていた。

しかし、これからは違う。私は自分のなかに眠る、ある特殊な嗜好に気付いてしまった。

私は海上自衛隊東京音楽隊萌えである。

どうして、私がこんな特殊な嗜好に気付いてしまったかを説明するためには、まず一冊の雑誌について語らなければならない。

諸君らは、MAMAMORという雑誌をご存知か。

殆んどの人が知らないと思われるので、軽く説明しておこう。

MAMAMORとは扶桑社が発行する、日本の平和をどうやって守っていくかを考える月刊雑誌のことで、防衛省唯一のオフィシャルマガジンでもある。

自衛隊訓練の様子や、今後の国防をテーマにした座談会などの硬い記事から、自衛隊の携帯食料(近頃ブームのミリメシのこと)を某局の大食い番組で人気を博した大食いタレントが食べつくすという、かなりバラエティ色の強い記事まであり、読書を飽きさせまいとする編集者の意向なのか、なかなかどうして懐の深い内容ではある。

しかし、今回取り上げたいのは、別にこの雑誌の硬軟取り混ぜた内容のことではなく、MAMAMOR11月号の表紙と巻頭グラビアを飾った、磯山さやかという美の女神のことである。

それにしても、ああ、何という美しさであろうか。

海上自衛隊東京音楽隊の制服がこれほど似合う女性が他にいるであろうか。

否、彼女だけであろう。

真っ白な生地に金モールをあしらった、シンプルだが優美な制服。その下には清潔な純白のブラウス。黒いタイが全体の印象を引き締める、よいアクセントになっていることも見逃してはならない。そして、下は黒のロングスカートで白い上半身と見事なコントラストを描いている。

表紙の一枚こそ、あまりその魅力を生かしきれていなかったが、中に収められたグラビアは完璧な作品ばかりだ。

空撮写真なのか、屋上にたたずむ彼女を上から撮ったグラビアなどは、彼女の美しい黒髪がふわりと広がって、もう何と表現しても表現しきれない、言葉の無力さを思い知らされるほどの美しさであった。

フルートを吹いているグラビアもよかった。

彼女のふっくらとした、愛らしい頬のまるみとフルートのシャープなシルエットがあれほど合うとは思わなかった。

私はフルートに激しく嫉妬せざるを得なかった。

名優フランキー堺の代表作に「私は貝になりたい」があるが、私は彼女の吹くフルートになりたい。

ところで、音楽とはただ美しく、心を和ませるだけではなく、人の心を揺さぶり、高揚させ、熱狂へと追い込む力も備えている。

戦争と音楽とは実はとても相性がよい。勇壮な音楽が兵士たちを鼓舞し、死地へ送り出すのは、洋の東西を問わず、また過去から今に至るまで、戦場における日常的な光景であり続けている。

私は臆病ゆえの戦争反対論者だが、もしも彼女の音楽に送られるのであれば、米国へのリベンジに打って出るのもやぶさかでない。

そんな突拍子もないことを考えるぐらい、私は今回のグラビアにやられてしまった。

まだ見ていない人はぜひとも見て貰いたいものである。

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2008年9月25日 (木)

アキレスの踵。南明奈の膝。

うさぎ、うさぎ、何見て跳ねる。十五夜お月様見て跳ねる。

中秋の名月も過ぎた(ちなみに今年は9月14日であった)というのに、何故にこんなお月見の歌? 

などと怪訝に思った方も多いであろう。が、もちろんこの歌詞を抜き出したのには訳が有る。

それは14日の夜、私が十五夜の名月を眺めつつ、ぼんやりとこの歌を口ずさんでいた時だった。何となく晴れやかな気持ちでいた私の頭の中に、唐突にあるイメージが浮かんできたのだ。

それは月で餅を搗いているうさぎではなく、南明奈その人であった。より詳しく述べるならば、南明奈の膝であった。

ところで、人は『 南明奈のグラビア 』と言われ、どんなイメージを頭に浮かべるだろうか。

砂浜を元気に駆け回る彼女だろうか?

顔をくしゃくしゃにして笑う、彼女の無邪気な笑い顔だろうか?

しかし、もし私と感性が似ている人であれば、今、彼女の足は地上にないはずだ。

私が思い浮かべる『 南明奈のグラビア 』とは、思い切りジャンプした彼女が、ふわりと宙に浮かんでいるところだからである。

南明奈に限らず、そのグラビアアイドルに元気というイメージを刻みたい時、カメラマンは彼女らを宙へ飛ばすことによってこれを解決しようとする。

では何故ジャンプすることが元気さに繋がるのか。

それは大人とはあまりジャンプしないものだからである。

人は成長すると稀にしか飛び上がることをしなくなる。例外はスポーツや高い処にある物を取ろうとする時ぐらいであろう。他にも予想外のことが起きた驚きで、うひゃあと飛び上がる場面を昔の漫画でよく見たが、それは漫画特有の過剰な演出であり、現実の世界で見られることはまずないので除外する。

つまり、何かのためにやむを得ずするわけではなく、単にジャンプする快楽のために跳ね上がる行為は、子供たちの専売特許なのである。

ここまでくれば後は容易である。子供=元気という図式は、誰でも違和感なく受け止められる真理だからだ。

休日、仕事の疲れを引き摺りながらも家族を連れて観光地に出かけた父親が、はしゃぎまわる我が子を眺めて「子供は元気だな」と呟くように、子供というものはその小さな身体にとうてい納まりきらないエネルギーを蓄えているのである。

そして、その元気な子供を模倣することで、彼女たちは自らに元気というイメージを付与しているのである。

今現在もっとも元気さを売りとする南明奈は、おそらく歴代のグラビアアイドルの中でもそのジャンプ回数はかなり上位であるはずで、私が跳ねているうさぎから、南明奈のグラビアを連想したのも無理のないことなのである。

それにしても心配なのは彼女の膝である。

はじまりがあれば終わりがある。

写真の中の彼女は永遠に宙に浮いていられるが、現実の彼女はそうではない。

跳んだ回数だけ、着地しなくてはならないのだ。

そして、その衝撃をもろに受けるのは膝である。

砂浜ならば砂がショックを和らげてくれるから大丈夫、と考えるのは早計である。砂浜というのはあれで案外起伏があるものなのだ。ランダムに出来た大小の斜面の上で、毎回きちんとした着地を決めるのは、実はかなり難しい芸当なのである。

身体に感じない程度の軟着陸を繰り返す内、その歪みはしだいに大きくなっていき、ある日、突然に激しい痛みとなって彼女の膝を襲うのではないか。

近頃ではそんな想像が頭から離れず、彼女のグラビアを以前ほど純粋に楽しめなくなってしまった。

膝を抱え、悲鳴をあげる彼女など決して見たくない。

願わくばグラビアの神よ、南明奈と南明奈の膝を守りたまえ。

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2008年9月13日 (土)

石井香織と時計の針 ( アイドル愚考録 )

「時計の針を戻すことはできないが、前に進めることはできる」

そんな台詞を何かの小説で読んだことがある。

時間は不可逆である。過去に遡ることは神の御業であり、人の力ではかなわない。しかし、現在ある流れに介入し、その流れを人為的に早くすることは可能である。

確かそんな意味であり、その台詞を吐いた人物は人類の破滅を必然とし、その来るべき終焉を早める為あらゆる方策を尽くしていた。

そんなことを、ヤングアニマル嵐10月号で思い出した。

こう書けば、表紙と巻頭グラビアの、しほの諒のことかと勘ぐる人もいるかもしれないが、そうではない。

問題は巻中グラビアの石井香織である。

彼女はサンケイスポーツが作り出した新人アイドルユニット、ゆめ☆たまごの一員であり、知名度はモーニング娘。に負けるが同じぐらい出入りが激しい同ユニットにおける、唯一の初期メンバーである。

(現在はユニット自体が活動を休止しているが……)

10代とは思えぬ妖艶な色気で、じわじわとグラビアでの影響力を伸ばしている期待の新人だ。

今回のグラビアでも、そのねっとりとした熱い視線と厚い唇で、背筋のぞくりとするようなグラビアを披露している。

そんな中、とくによかったのが白地に赤い金魚の模様という、少し子供っぽい浴衣を下に敷き、その上に水着姿の彼女が横たわっているカットだ。

ごちゃごちゃとしたキッチュな浴衣をアイテムに使うことで、実年齢に近い、彼女のグラビアにしては珍しいぐらいの可愛さを演出できている。

それでいて、その上に転がる彼女はあられもない水着姿であるというのもいい。

結果、いろいろとこちらの妄想を駆り立てる、懐の深い一枚に仕上がっていた。

ところで、私はこのカットを見た時、ある暗澹とした想いに囚われた。

それは、今回のグラビアを見た先達たちはどう思ったのだろう、というものだ。

自分よりも年下の少女が、大人っぽい色気から少女本来の爽やかな色気まで演じわけているのである。

足元が揺らぐようで、心中穏やかではいられなかったのではないか。

自らを追い落とそうとする、新しい力がすぐそこまで迫っている。首にかかった死神の手を感じ、恐怖に顔を引きつらせたのではないか。

しかも、ここにある可愛さと色気のコンビネーションは、もう自分たちがどんなに望んでも得られない少女期特有のものなのである。

彼女たちの恐怖と苛立ちは如何ばかりか。

魔法の鏡に問いかけた女王は、白雪姫を知った時、どれほどの絶望を感じたか。

『 道を開けろ。お前の時間は終わった 』

今回の石井香織の巻中グラビアには、そんなメッセージが篭められているような気がしてならなかった。

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2008年8月25日 (月)

石原あつ美と石原ブルー ( アイドル愚考録 )

ピカソの青(プロシア青)。

北野たけしの北野ブルー。

これに石原あつ美の石原ブルーを加え、『 世界三大ブルー 』とすべきではないか。

ヤングマガジン38号の石原あつ美のグラビアには、そう思わせるだけの魅力があった。

先ずは駆け足で総評から。

最初から最後まで、石原あつ美という素材を活かしきった、素晴らしいグラビアであった。

敢えてラフに乱した、くしゃっとした髪が自由奔放で楽しい。茂みからひょっこりと顔を出した、愛らしい小動物のようだ。

彼女のチャームポイントである大きくて澄んだ瞳は、顔の表情の濃淡を意図的に薄めてみせることで「笑っている目」「怒っている目」という感情の従属物に堕ちることなく、独立した一個の芸術品となっている。

ヤングサンデーの休止にともない、ヤングマガジンによせる我々の期待は大きなものとなっている。そんな中、オール水着カットという実にヤングマガジンらしい骨太のグラビア構成は、これからも変わらずグラビアの王道を突き進むという、彼らの声明文に他ならない。

グラビア界の行く末に不安を感じていた我々の不安を打ち消す、何と力強い主張だろうか。

ひとまずは安心して良さそうである。

それでは本題である石原ブルーに移るとしよう。

石原ブルーが確認できるのは全グラビアの内わずか数枚のカットである。その数は極めて少ないが、他のカットを圧倒する比類なき光を放ち、我々の目を惹きつける強い引力を備えている。

撮影場所は浴室である。ホテルなのか、すこし狭くて息の詰まるような緊迫した雰囲気がある。

そこに、彼女が立っている。

シャワーの雨に打たれながら、こちらをじっと見ている。濡れてボリュームのなくなった髪が、頬や首筋に張り付いて凄絶なエロスを醸成している。

そして、画面全体を支配する、淡く、透き通るようなブルー。

これが石原ブルーである。

その色はペルーとボリビアに跨る古代湖、チチカカ湖の色合いに近い。風一つない、完全に凪いだ状態のチチカカ湖を思い浮かべてもらいたい。あの青は確かに石原ブルーである。

その青が、現実とも幻ともつかない空間を作り出し、石原あつ美というグラビアアイドルから名前を奪い取り、まるで正体の知れない、極言すれば生きているのか死んでいるのかすら分からない、謎の女に変えてしまっているのだ。

こう書けば、すべては撮影スタッフの演出の力によるもの、と勘違いされそうだが、それは大きな間違いであると断じておく。

あのブルーにもっとも相応しいキャンパスは、石原あつ美の肌以外にありえないからだ。

色の白さで言えば、谷桃子も愛衣もよい色を持っているが、彼女らの白は底に温もりが透けて見えてしまう。石原あつ美のクリアーな白だけが、今回の求めに応じられる唯一の色なのである。

ここで種を明かしてしまえば、この色は浴室に張られたタイルの青である。それがシャワーの水と混じりあい、溶け合い、淡いブルーとなって画面を覆っているだけだ。言葉にしてしまえば大したことのない、奇術やペテンのたぐいとも言えよう。

しかし、もっとも簡単なトリックで大衆の目を欺くこと、それが奇術の最終到達点である。

寧ろ、これだけの手札で、石原ブルーという奇跡を成し遂げてみせた、スタッフおよび石原あつ美の卓抜したその手腕を賞賛すべきではないだろうか。

今回、私は彼らの偉業を讃えると同時に、これだけのスタッフを擁するヤングマガジン編集部の能力の高さを示すことで、私同様ヤングサンデー喪失のショックに揺れた人心を癒したいと考えた。

それが僅かなりとも叶ったのならば、これに優る喜びはないのだが。

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